前回「なぜ『チーム・バチスタの栄光』は推理小説だったのか・前」

この「理系畑の人間が、文学という武器を手にしたからこそ、文系人間以上のパワーと圧力を持ったロマンティシズムが、濁流のように溢れ出て、読者に襲いかかる」という構図もまた、瀬名氏の『パラサイト・イヴ』とも共通する部分であり、理系出身の作家諸兄は、そこのコントロールに慣れていないぶんだけ、上手くいけば凡百の作家にはたどり着けないレベルの感動を呼び覚ますことができるが、上手くいかなければ、それまでの知的興奮に水を浴びせるような、陳腐で安いメロドラマを築いてしまう危険性と、背中合わせなのである。

その上で筆者が興味深いのは「なぜ『チーム・バチスタの栄光』は推理小説だったのか」という点である。
もう少し言い方を変えるならば「なぜ海堂氏は、小説家になろうとするに当たって、そのジャンルにミステリーを選んだのか」という興味である。
ここは海堂論のメインストリームになる部分なのだが、海堂尊氏の属性は、実は推理小説というジャンルにはない
田口&白鳥シリーズだけではなく、桜宮サーガを俯瞰しても分かるのだが、そこでの海堂氏の視点は「新たなミステリー小説の創作」へは向いていないのだ。
それは東野圭吾氏や宮部みゆき氏が持つ、ノンジャンルの自由さとは少し違い、海堂氏が医療という世界への頑なさゆえに、推理小説というジャンルに帰属しきれないというニュアンスの問題なのだ。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事