『ウルトラセブン』(1967年)

続く制作体制のその作品では、もはや味方は誰もいなかった。
唯一、市川森一という天才がいたのだが、市川は若く、また自身が抱く夢ややるべきことが多すぎて、金城の持つ苦しみを、フォローするところまで辿り着けなかった。
いや、市川は気付いていた。
ちゃんと市川は金城の苦しみに気付き、手を差し伸べるタイミングを計っていたが、市川は若すぎ、そして円谷での地位が低すぎた。
市川は天才ではあったが、その環境論が厳しすぎてか、金城の苦しみは察しても、どうすればいいのか、模索する余裕すらなかった。

上原も、もはや金城とは関係ないマイペースで躍進した。
金城は、それを見ながら勇気付けられ、その躍進速度に圧倒されながらも、自身を一歩でも前に進ませる行為に没頭した。

山田はもう完全に外様の気分と立ち位置であり、セブンでは『マックス号応答せよ』(山田正弘脚本 満田かずほ監督)と『散歩する惑星』(山田正弘 上原正三脚本 野長瀬三摩地監督)の、2本だけしか参加しなかった。
しかも『散歩する惑星』は、早逝した親友作家・虎見邦男氏の追悼のために書かれた作品であり、むしろ、その目的の場として『ウルトラセブン』が利用されたに過ぎない。
もちろん、山田はいまだ苦しむ金城へ手を差し伸べることはしなかった。
同朋の後輩、上原は、同じ若手新人の市川森一と共に、脚本執筆と青春の謳歌に没頭するばかりで、金城をレスキューしようとする動きは全く見せなかった。

「『ともだち』と思っていいのは円谷一だけなんだ」

金城はそう思うしかなかった。
『姿なき挑戦者』(金城哲夫脚本 円谷一監督)『空間X脱出』(金城哲夫脚本 円谷一監督)『蒸発都市』(金城哲夫脚本 円谷一監督)
金城がセブンで円谷一と組んだのはこの3本だけであるが、そこで体感した充実感と満足感は、金城に「この人だけがいればいいんだ」と思わせてくれた。
『ウルトラセブン』第一話でもある『姿なき挑戦者』では、主人公のモロボシ・ダンが、地球に来て、自分が異国で滅私奉公する喜びについて触れて「ともだちが出来ること」を語るシーンが金城によって描かれたが、円谷一監督の映像作品では、なぜかやはりそこがカットされていた。

周囲に、自分を理解してくれる作家は誰も存在せず、円谷一を除き、全てが敵に見える状態。
そしてそこへ現れたのは、TBSのプロデューサー・橋本洋二氏だった。
橋本氏は崇高な理想主義者でもあり、プロデューサーという立ち位置にいることもあって、そこでの自分の役割「作家達の教育」を込めた。
当然、その教育の対象は金城を筆頭に選ぶ。
そこには悪意はない、あったのは理想と善意と、ほんの少しの思い上がり。
橋本は金城を「自分が正しいと思う脚本家」へと、教育をはじめた。

ウザイ、うるさい、金城はそう思った。
なまじ、そこにあるのが悪意ではなく善意であるがゆえに、その思いは強くなった。
俺はあんたが思い描くような脚本家になりたくはない。
そもそも俺はあんたの部下じゃない。
あんたの部下は佐々木だろう。
佐々木が俺に何をしたのか、知らないわけじゃないだろう。
それを言うわけにはいかない。現実には橋本は親会社のプロデューサーなのだ。
表側だけでも、橋本に従順なところを見せなければいけない。
橋本には、既に確固たる教育術が身についていて、そこへ金城が逆らうことは、立場的にも技量的にも不可能であった。

『ウルトラセブン』というテーマと、ベトナム戦争を背景とした時代性は、金城視点からすれば。全てが(かつての佐々木のように)敵に見える状態を生んでいた。
書かれて送り出される、全ての作家の全ての作品が、自分を否定し、自分の夢を妨害している敵に見えた。
『ノンマルトの使者』(金城哲夫脚本 満田かずほ監督)
橋本に、おだてられ、頭を押さえつけられ、ヤケッパチで書き飛ばした作品は、金城にとって、没後数十年を超えた最高傑作と呼ばれることになった。
そこには、金城がこれまでひた隠しにしてきた「本音」が、誰にでも分かるように表現されていた。
「よしよし、それでいいんだ」
橋本は、その作品を観て、己の教育術の成果に酔いしれた。
「自分が金城を鍛えて、一皮剥かせてやらねば」
橋本は、金城への愛情と使命感からそう心に決めていたが、果たしてそれは「脚本家・金城哲夫」に対しては有効な劇薬でも、「人間・金城哲夫」に対してどう作用したのか。
しかし、得てして教育者は、そのような自己懐疑的な視点を持たない。
橋本プランニングは、ナルシズム視点の成功を経て「金城哲夫再教育計画」第二段のプロセスを迎えようとしていた。

『ウルトラセブン』最終回の『史上最大の侵略』(金城哲夫脚本 満田かずほ監督)は、今までの滅私奉公が祟って過労死寸前まで追い込まれたセブンが、過労ゆえに起こしたミスを周囲に責められ、追い詰められ、そのミスで危機に陥った「ともだち」を救うために命を落として、幕が閉じるという物語だった。
金城はあえて、自己投影した主人公を自死へ向かわせつつ、それを決して理解しきれない地球人(ナイチャー)達という図式を込めたが、自己陶酔の強い演出家によって、仕上がりは安いロマンティシズムな物語にされた上、後々テレビ界では「伝説の名作最終回」と、呼ばれる羽目になってしまう。

もう金城は壊れていた。
橋本教育術によって、壊されていた。
金城の中で、なんとか自分を保つ術である「本当の気持ちをひた隠しにすることでバランスを維持する」を、橋本の「上から目線」が破壊し、露呈させたのだ。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事