小松氏のSFの中でも、シミュレーション系の多くは、常に小説が書かれた「現代」と向き合っており、なのでこの作品内で描かれた、数々のリアルなシミュレーションの描写も、1976年時点でのみ有効だったシステム論も多く、平成の今となっては、近過去時代劇という趣もあるほど「あの時代はこうだったのか」感が満喫できるという意味で、小説連載開始から40年経った現在でも、また当時とは違った面白さがある小説に熟成している。

そういう意味でこの物語には、主に小松氏のテリトリーの大阪を中心として、実在する建物やインフラシステムが登場し、その裏側を見せてくれるという貴重な取材の成果も楽しめつつ、小松氏が向き合っていた「現代」が、どのような、普段の日常で常人が気づかない問題を孕んでいたのかを、浮き彫りにしてくれる部分もある。
高度経済成長期以降、オイルショック直後、コンビニ24時間時代直前。
それら三点ポイントを通過し終わる前に、一度小松氏が向き合っておかなければならないと提唱した「危機」。
全人類消失事件なんて出来事は、ブラックホール衝突以上に、常識的に起きようがないが、逆に『日本沈没』とは違って「まかり間違っても起きないクライシス」を、SFという土台を借りて「起こしてみせる」ことで、浮き彫りにされる、我々が無自覚になっている現代社会の盲点。

それは、Humanismっぽい物言いをするならば「我々の社会は、人と人が支え合う、巨大な延長線上で成り立っているのです」なのだが、オイルショックの後、自ら書いたクライシス小説のベストセラー社会現象で、国民全体に厭世観が漂う中で、小松氏が目指したものは「現代社会インフラの再検証」であると同時に、井上ひさし氏が『ひょっこりひょうたん島』で挑戦してみた「我々は、この先どこへ向かうかも、どうなっていくかも分からない『社会』という枠組みの中で、居合わせてしまった他人同士かもしれないが、そこでの小さな繋がりの積層は、今一度『社会』足り得るのか」への、人類愛溢れるラブレターであったのかもしれないと読み取れる。

個人的には、関西自体が食肉的には牛肉文化だからか、筆者の亡母が関西のブルジョワ出身で、筆者自身も子どもの頃は、牛肉しか食べない食生活であったからか、福井と啓子が、それぞれに「大阪と東京の“消え残り”同士」として、ようやく文庫開始から70ページの尺を経てホテル・プラザで出会った時の、初めての逢瀬が、ラウンジレストランで福井が焼いたステーキでの祝杯だったとか、ちょこちょこ集まりつつある“消え残り”の中で、ひときわ庶民的な、大阪日本橋の電気屋店主・真崎の家に招かれた時に、やはりここでも福井と啓子はカップルで、高級牛肉のすき焼きを食べる描写があるとか。
誰もが幼少期に『ドラえもん』等を読みながら憧れた「こんなに自由であれば、こんなものも食べられるのに」というようなツボも、外さない辺りが小松SFのきめ細やかさなのである。

そこらかしこで描かれる、社会の脆弱さ、しかし人のバイタリティの強さ、孤立した人間のシステム論的な弱さ、残された道具とインフラを使いこなして生きようとする人の姿。
そこには『日本沈没』社会現象時にも言われたように、小松氏ならではの「人類愛」があり、誰よりも日本を愛し、人を愛したSF文学の形がある。

この作品発表から半世紀。
1億人の日本人は、決してこの小説のように、消えずに社会を築き続けることが出来たが、小松氏が愛したこの国は、この国の人々は、はたしてどこまで、この先も漂い流れ続けるのだろうか。
ひょうたん島のように。宇宙を遠く去っていくVoyagerのように。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事