筆者は今回の一連の、本サイトにおけるミステリー評論の前提となるコラム『私的ミステリー観「80年代を境に」』において、ミステリーのニューウェーブという概念を持ちだした。
その、ニューウェーブという概念でミステリー文学をくくるのであれば、たとえば瀬名秀明氏が1995年に発表した衝撃作『パラサイト・イヴ』もその範疇に入るであろう。

本作とは「作者が文系畑に属しておらず、理系の専門分野の人間であり、その理系畑ならではの知識や発想を活かして、設定や物語や展開を構築している」という共通点が挙げられる。

また(バチスタシリーズ論後半で述べるが)バチスタシリーズの、決してミステリーという枠には縛られない、良くも悪くも「メディカルエンターティメント」と称するしかない、その特定の既存ジャンルへの帰属性が希薄な立ち位置も『パラサイト・イヴ』が、一方で「第2回日本ホラー小説大賞」を受賞しつつも、その根幹設定は遺伝子工学を用いたSFでもあったり、その一方で推理小説の年間ベストを選出する「このミステリーがすごい!」においても、1996年に『魍魎の匣(京極夏彦著)』などと共にベストに選ばれるなど、ジャンルボーダレスの評価を受けている点でも、両作品には、なにかと共通する匂いを嗅ぎとってしまうのである。

映画版『チーム・バチスタの栄光』

それはある意味で、近代学問や知識、ジャンルの細分化が、市井の人々をも、理系・文系と区分けしていった果てで、文系の専門分野であるはずの小説・文学の世界が入り込んでしまった閉塞を打破したのが、文学からは一番縁遠いはずだった理系の人達だったという、帰結に繋がっている。

それは何も小説文学に限らず、マンネリして閉塞した文化事情を打ち破る手法として、時として有効なのはいつだって、異分野の才能が持ち込みもたらす、斬新な発想とアイディアだというルーティンは、例えば映画の世界でも一時期、やたら俳優やミュージシャンなどの異分野人に、監督業を任せる流れがあったことからも分かるだろう。
まさに筆者が、現役で映像の現場をかけずり回っていたあの時代。
ネームバリューや話題性だけで監督のメガホンを渡され、その気になってはみたものの、ほとんどの素人監督はただのお飾りでしかなく、プロスタッフの間では、そういった異業種監督の映画は、揶揄の意味も込めて「カラオケ映画」と呼ばれたが、逆の見方をすれば、そんな風潮や流れがあったからこそ、「世界の北野武」が誕生できたのも事実なわけであり、一概に批判ばかりというわけにもいかないのである。

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