『傷だらけの天使』が求めた風景

共通して言えるのは、市川氏作品を取り巻く「厳しすぎて、過酷すぎる“現実”は、我々視聴者の周りにもある“普遍的な現実”であり、その中を人が、人生を、潰れずに、壊れずに生きていこうとしたときには、人は現実だけでは耐久力に乏しすぎ、自身の俗物的幸福感だけでは満たされることもできない。現実逃避や夢想を現実と組み替えるだけのメカニズムを駆使してでも、自分のエゴではない、何か他の物のために奇跡を起こす時、人は本当の意味での幸せを得られるのであろう」という価値観である。

しかしはたして、『傷だらけの天使』のショーケンと水谷豊は、常に自分たちの金や女のことばかり考え求めて暴走しては、結局何一つ得られたものはないという物語に終始していた。いつの間にか、呉越同舟してしまった女性に肩入れし、その女性のために厄介事に巻き込まれ、とんだ目にあわされて終わる話も多い。
これをして、どうとらえればいいのか。
市川氏の当時のモチベーションは、敗北と沈黙であり、幸せ捜しにはまだ至っていなかったのか。
そこへの結論ではないが、ヒントにはなる顛末を、本書のあとがきで市川氏がこう記している。

自らも、時折、「傷だらけの天使」ッて何だろう? と自問することがあった。
数年ぶりに、再び、「傷だらけの天使」の脚本をめくる機会を与えられて、ぼくは、その答えを、自らの脚本の中に発見した。「傷だらけの天使」のパイロット台本(試作品)として最初に書いた「自動車泥棒にラブソングを」の脚本の、ファーストシーンの第一行目のト書きが、それだった。
――鳩が、糞をたれて、飛び立つ。
「傷だらけの天使」は、この一行から始まった。
鳩=平和のシンボル。即ち、平和の糞。七十年代の繁栄がたれ流した糞。「傷だらけの天使」とは、ほかでもない、実に、鳩の糞だったのだ。

『傷だらけの天使』市川森一脚本集

ショーケンのライバルだった松田優作氏の『探偵物語』は、時代を越えて今でもファンが多く、近年講談社『松田優作DVDマガジン』などで全話収録するDVD付雑誌を販売して好セールスを上げるなど話題にことかかなかったが、当時の映画青年たち、そしてその先10年前後の世代の者たちにはカリスマ的存在だったドラマ『傷だらけの天使』が、今この時代を迎えて、緩やかにマイナーな方向に存在性がシフトしていっているのは、ひとえにそれだけ『傷だらけの天使』という作品自体が、70年代という時代性と密接な関わりがあり、それは社会性であったり、政治性、風俗的な意味合いも含めて、まさに時代と混然一体となった作品であったからであり、いうなれば、柏原氏が寄稿してくださった「センチメンタリズムは永遠」の世界も、この1974年を起点として成立していたノスタルジィなのだ。2010年代の現在から見直した時には、30年代の『望郷』も70年代の『傷だらけの天使』も、等しくノスタルジィの対象であり、1974年当時に、ロックン・ロールとリーゼントが、どれだけ時代遅れで、どれだけ流行を先どっていたのかを、現代の時代感覚では推し量る事すら難しい。

鳩がたれた糞

言い得て妙だが、まだ時代の気分は、東京五輪から東京タワー、大阪万博や札幌冬季五輪の流れと、70年安保、赤軍派解体、東大闘争、あさま山荘などの流れと混然一体となっていて、時代が、70年代の日本そのものが膨れ上がり過ぎて、膨満感で一杯になってしまっていたというのは、筆者の幼少時の印象と一致はしている。
それでもベトナム戦争でも中東紛争でも、お題目は「正義のため」「平和のため」であった。
市川氏は、『快獣ブースカ』(1966年)から『ウルトラマンA』(1972年)までの、子ども番組脚本執筆の流れの中で、「正義」という言葉の胡散臭さを説き続け、それはなんとか、一部では実を結び、自らが提唱に協力した東映『仮面ライダー』(1971年)のオープニングナレーションや、盟友の上原正三氏がメインライターを務め、シリーズ中盤から自らも参戦した『帰ってきたウルトラマン』(1971年)等では「人類の自由と平和のために戦う」をヒーローが戦うモチベーションに掲げた。
しかし、市川氏は後に、子ども番組から引退したときの心情に触れてこうも語った。

「許すしかないんですよ。僕は、愛と平和のために戦うというのは矛盾していると思う。本当に愛と平和を守りたいのなら、許し続けるしかないんです」

市川森一氏・談

毎回襲い来る、果てしない絶望の前に、何もできなかったショーケンと水谷豊。許すことしかできなかった二人。彼ら二人が、ではなく、その構図そのものがきっとおそらく「鳩がたれた糞」であったのだろう。

その、鳩がたれた糞の持つ意味や圧倒的な絶望感は、70年代という時代を、リアルタイムで肌で味わった者にしか伝わらない。それがテレビドラマというものであろうし、いつでも表現は、環境社会や時代をパッケージングしていくコンテンツなのだろうから。
それゆえに、『傷だらけの天使』は伝説になった。
伝説とは、時流や流行の中で再評価されるべきものではなく、時の流れから完全にパージされし存在を指して冠せられる言葉である。

代替テキスト

遺された伝説や古ぼけた地図だけを頼りに、古の秘宝を求めた者が、いざ目的に到達したときに、その期待とのギャップに心折れる物語は、古くから数多い。
なにせ、こと『傷だらけの天使』の場合「鳩が垂れた糞」なのだから、そもそもとしてのその鳩の有難味が理解できない現代層が、どう期待を膨らませて観てみても、伝わり切らないものがあるのかもしれない。
しかし、その一方で、あの時代がこの作品を産み落とせた奇跡を、筆者は日本のテレビドラマ界の良心だと思いたい。祭りの後にさすらいの日々をまだ彷徨っている、筆者自身の魂に今も向けて。

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