前回は「『犯罪・刑事ドラマの50年を一気に駆け抜ける!(70年代をナメるなよ)』Part13」
倉本聰、市川森一、鎌田敏夫、田中陽造、大和屋竺、小川英、長野洋、宮田雪、播磨幸治、柏原寛司、永原秀一、早坂暁、佐治乾、佐々木守、上原正三、峯尾基三、丸山昇一、長坂秀佳、大原清秀、畑嶺明、高久進、大川俊道といった脚本家陣や、村川透、斉藤光正、長谷部安春、工藤栄一、恩地日出夫、澤田幸弘、降旗康男、手銭弘喜、神代辰巳、深作欣二、長谷川和彦、須川栄三、佐藤純彌、佐藤肇、田中秀夫、村田忍、久世光彦、山本迪夫、児玉進、土屋統吾郎、天野利彦、今野勉、小澤啓一、西村潔といった演出陣が、東宝、新東宝、国際放映、東映、大映テレビ、東映セントラル、東映京都、ユニオン映画などを舞台にして、それこそ言葉通りに群雄割拠した、70年代から80年代へかけての刑事・犯罪ドラマ群。
そこで「犯罪」という狂気と非日常を介して向き合う、犯罪者と刑事達は、皆自分の人生と過去と、自分達を育んだ社会や国家や環境や家族や、自分へ向けられた愛情や憎しみや、自分へは向けられなかった愛情や憎しみと向き合い、現実から目を逸らさずに、「法の権力と正義の狭間」を魚群のように漂いながら、様々な絵巻を見せ続けてくれた。
刑事や探偵が主人公で、そこでドラマを描くのであれば、それは逆説的な意味で「そこ」で巻き起こるガジェットが、必ず「犯罪」であることを前提にしている。
ドラマで描かれるべき「犯罪」は二つの側面を持つ。
一つは「それ」が、現在の日本社会を維持している、現行法の定義内において、なんらかの形で、刑法に触れている現象が起きたという側面と、もう一つは、その条件が満たされた時点で、必ず被害者が発生し、そこには「夢の終わり」「愛の終わり」「命の終わり」「絆の終わり」の、どれかが発生しているという側面の、前提論である。
問題は「何をもってして正義と認定するか」「何が唯一にして絶対の正解なのか」ではないのだろう。
事件が起きる。刑事がそれを捜査する。謎があり人間があり、事件の解決がある。
その一連の流れの「虚構」の中で我々は、狂気と犯罪というフィルターを通して、「事実ではなく真実」を、そこで見つめるのである。
今回の記事の冒頭でも書いたように、ネットを中心にした昨今の思考停止価値観では「70年代は、サヨクが幅を利かせていた時代だった。愛国心を否定する、反日のサヨクどもがのさばっていたのが、あの時代なのだ」という「知りもしない癖の馬鹿」が後を絶たず、そんな寝言を自己満足で喚いているらしい。
確かに、人の人生において「過去は記憶の中にしかなく、未来は想像の中にしかない」は、絶対的な真理として、踏まえるべき前提なのかもしれないが「過去が残した真実の記録」というものは、史実のみを指すのではなく、そこで、どんな文化や価値観が交錯していたかをも、たとえばそれこそ「作品」という形で、後世に残すことができるのだ。
そこへの検証もないままに「そう決め付けた方が都合が良い」連中同士だけで、勝手に過去を、あの時代を、あの時代に生きて残された作品達の存在を書き換えられてたまるか、という思いが、今回のこの記事を書くきっかけになった。
ネトウヨだのブサヨだの、レッテルを相手にいかにして貼るかばかりを考えながら、上から目線で、偉そうな「ゴーマン」とやらをかました奴が主導権を得るなどという、幼稚園児の遊び以下の、思想論壇の遊戯などに興味は無いが、少なくとも「あの時代のテレビの送り手」達は皆「犯罪と闇と狂気と非日常を通じて、テレビの前の日常者に何を見せるか」については、それがフィクションであるからこそ、そこでの態度は真剣であり、絵空事が前提であるからこそ、「現実」に対して真摯であったと、今も考えている。
それはおそらく、向かった先が「単なる面白さ」であったとしても、そこにはやはり「虚構を虚構として楽しむために、送り手と受け手が共通認識として、踏まえなければいけない覚悟」のようなものが、あの時代にはまだ存在していたのだろう。
自分が学生時代。
殆ど独学で民俗学なんてものをかじっていたものだったが、その、映像と民俗学に共通しているものはやはり「ガタガタ机上で空論を交わしている暇があったら、実物に触れろ。現地へ飛べ。実際に自分の目で見て、現実と向き合ってから理屈を述べろ」だった。
あの時代。「嘘くさい入れ物」の中には、真実がぎっしり詰まっていた。
その時代の「嘘と真実の距離感」に信心を寄せている自分には、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)も『踊る大捜査線』(1997年)も『電車男』(2005年)も『恋空』(2006年)も『進撃の巨人』(2013年)も『鬼滅の刃』(2019年)も『シン・エヴァンゲリオン』(2021年)もどれもこれも、「リアルなディティールだけをかき集めてでっち上げた、デッサンの狂ったフランケンシュタイン」にしか、見えないのである。
はたしてこれは、これら個別の作品を批判するものではない。
要するに「時代のニーズが求めている『嘘ならでは』と『本当っぽさ』」を、満たす定義と物差しが、既に全く異なっているということなのであろう。
どちらが唯一無比の正解なのか、そのビーチフラッグを争うパワーゲームに興味は無い。好きな人が好きな方を自由に選び続けていけば、市場は健全に働くのだろう。
しかし、それみたことか「虚構の真実」をロジックで否定した結果、いまやテレビのドラマが民衆を引き付けることが不可能になっており、そこに取って代わる形で、インターネットが「より真実っぽい」という触れ込みで、人々の娯楽の王座につこうとしているではないか。
それはまるで半世紀前に「娯楽の王様」だったはずの映画の銀幕を押しのけて、「電気紙芝居箱」と呼ばれていたはずのテレビジョンが文化の中枢にのし上がった時の衰勢を、なぞるかのようでもある。
上でも述べたように、全ての「未来」は、人の頭の想像の中にしかなく、また「それ」は、人の数だけ存在を主張できる。「50年後の社会」なんてものは、誰にも予想はつかないように出来ているのだ。
たとえそれがたかが「50年後のテレビの刑事ドラマの様子」であったとしても……。
それでも自分は「あの時代」を生きたのだ。
それだけで充分であろう。
何をどう、屁理屈をこねくり回されようとも、何人たりとも記憶の流れを遡り、上書きや訂正を行うことは、これは不可能であるからだ。
そして「それ」は今もなお、フィルムやビデオテープの内側に、焼き付けられたまま「変わらぬもの」を蓄え続けているのだ。