アニメを読み解く

“ガンダム”と聞いて、何の意味だか分からない、50代以下の日本人はいないだろう。例えその作品を観たことがなくても、名前だけでも聞いたことがあるはずの子ども向けテレビ番組タイトルとしては、『ウルトラマン』『仮面ライダー』『ドラえもん』『アンパンマン』『ルパン三世』等と並ぶ、今や日本が誇るブランドでありジャンルでありタイトルである。

あえて野暮な解説をそれでも書くなら。

『機動戦士ガンダム(以下『ガンダム』(1979年)は、1979年から1980年にかけて、全43話が放映された、ロボット未来戦争アニメであり、放映中は視聴率が振るわず、当初予定されていた話数より、打ち切り短縮の形で終わってしまったが、放映終了前から熱狂的なファンが口コミで増え、その後ガンダムプラモデル(ガンプラ)の発売や、再編集映画化等で『ガンダム』はブームから社会現象へと発展。

映画版第1作『機動戦士ガンダム』(1981年)公開直前の、1981年2月22日に新宿アルタ前で行われた屋外イベント「アニメ新世紀宣言大会」では、公称2万人のファンが詰めかけたことも新聞等で話題になった。

その後、1985年の直接の続編『機動戦士Zガンダム』(1985年)を皮切りに、シリーズは後継作品や派生作品が次々に展開。21世紀にはすでに、富野由悠季監督以外のガンダム作品も数多くオンエアされる、小説が執筆されているなど、もはやシリーズという枠を超えて、ジャンルとして日本のエンターテインメント文化に根付いたビッグタイトルだと認識しても良いだろう作品に育った。

実は。

今回のこの連載は、かつて書評サイトで、2017年の3月から連載され、翌月まで14回が連載され、中断されたまま5年を経過していた。

中断の理由や言い訳はともかく、その連載当初のコンセプトを、改めてまずは書き起こしてみたい。

「アニメーション作品(この場合は『機動戦士ガンダム』)を“書評として書く”という行為」に、愚かな“映像作品評の置換”だけにならずに、アイディンティティを築かせることが、出来ないものかと当時熟考していた。

書評の衣をまとって、映画論、アニメ作品論をでっちあげるなどというトリッキーな手腕だけに終始せず、小説ではないメディア作品を“書評”する。まるでとんちのような自問自答であるが、一度アイディアが浮かんでしまえば、決断までは早かった。

要するに、『ガンダム』を初めとする、富野監督のガンダムシリーズを、全て「富野由悠季氏の個人作品」として扱う前提をすれば、ある意味個人が執筆している小説や書籍作品と同等に扱うことが出来る。そしてまた、書評としてのレゾンデートルは、それら論を展開していくときに、数々の「ガンダムブーム当時に出版されていた、関連書籍やムック等」を資料と題材にすることで、「ガンダムブームを、数々の書籍で“読む”」というテーゼに、充分にアイディンティティは保たれる。

この発想とアジテーションに、異論のある人もいるだろう。暴力的発想だと憤慨する人もいるかもしれない。

なので今回は、今後の連載の前書きとして、「アニメを書籍と同列に語ること」をテーマに文章を進めていきたい(かなり強引な論もあるかもしれないが、今回の連載のメインコンセプトになるので、お付き合いいただきたいなと思う所存です)。

まず一つ目に、当然の問いかけとして向き合わなければいけないのが、「アニメーション作品を、書籍と同じステージで批評できるのか」という問題である。

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