『ウルトラセブン』(1967年)は企画時の方向性が「宇宙+海洋」であったため、初期の宇宙人にはゴドラやビラなど、海洋生物を想起させるモチーフが多いが、結果、放映開始からの順番で登場した三作品では、クール・ピット(昆虫)エレキング(ウミウシ・爬虫類)と、そして本話のワイアール星人(ネーミングのY・Rは葉緑素の頭文字)の植物と、結果的に、地球の生態系において哺乳類・人類を取り囲む、様々な生物が宇宙人の形態を借りて遅い来る構図になった。

また、戦争構造の描写を嫌った金城哲夫氏のコーディネートによって、初期のセブンの敵宇宙人は、正攻法で武力で地球侵略を行う敵は殆どおらず、後の『仮面ライダー』(1971年)の初期のショッカーの作戦を思わせるような、秘密裏の隠密侵略作戦が多いのも特徴である。

前記した生態系の投影は、科学文化が肥大した人類が持つ、地球自然生態系への危機懸念を具象化した構図であろう。

「進化した植物が人類を襲う」というモチーフは、『ウルトラQ』(1966年)の『マンモスフラワー』から始まって、『ウルトラマン』(1966年)の『ミロガンダの秘密』『来たのは誰だ』などで、第一期ウルトラではレギュラーモチーフとして扱われてきたが、本話のタイトル『緑の秘密』も、元々は『ウルトラマン』(1966年)企画段階での、『レッドマン』でのシノプシス(検討用あらすじ)にあったタイトルである。

また、組織的地下工作テロリズムの構造で言えば、(特に)初期セブンで言及するならば、最終的なセブンとのバトルにおいて、セブンと直接戦うことになる宇宙人は、その多くが「侵略地下活動を行っていた組織の代表選手」であり、当初からオンリーワンで劇中に登場する場合では、ペガッサ・キュラソ・ワイルドといったように、皆一様に、悲劇的な背景を背負って劇中に登場するのである。

これは前作『ウルトラマン』においての、オンリーワンタイプの宇宙人、ザラブ星人やメフィラス星人が、ウルトラマンに匹敵するポテンシャルと、確固たる思想・侵略意思をもって単身で地球に挑んだのとは、全くの逆であったりもするのだ。

第一期ウルトラが持っていた「進化した植物」というモチーフと、セブン初期が持ち合わせていた「地下活動侵略」というモチーフが、シリーズ初期で融合するとどうなるか、それが本話の核なのだ。

本話のワイアール星人の不気味さとコミュニケーション不全さは、どちらかというとセブンの宇宙人というよりは『ウルトラマン』の宇宙人に近い。それは、そもそもが「植物には感情も意思もないはずなのに、どこかにスピリチュアルな思惟の存在を感じ取れてしまう」という、人が植物に持つ独特の深層意識から来ているのだろう。

本話におけるワイアール星人の活動は、戦争的構造で描かれる「侵略」ではなく、生態テリトリーを広げることが目的の、繁殖活動に近い形で描かれる。

やはり『ウルトラQ』で金城氏が書いた『マンモスフラワー』のジュランがそうであったように、人は万物の頂点ではなく、大きな生態系の一種でしかなく、哺乳類であり文明と感情を持つ人類とは対極に存在する植物が、時としてそのことを、人類に(警告などではなく)知らしめにくるのだと、そしてちっぽけな存在の人類如きには、それに抗う力はないのだと、万物の精霊達に見守られて育まれてきたアニミズムの国・琉球の民・金城哲夫氏ならではの視点と価値観が、そこには垣間見れるのである。

植物は武力も戦略も持たず、その生態系そのものが全てであり、それが人類とカテゴリ競争を行ったときに、決してそれは、文明や武力のレベルで勝っている人類が有利なのだとは、限らないのだと、ジュランやワイアール星人は語っているのだ。

その「ワイアール星人の武器である生態系」で、この話を語るのであれば、本話は、ワイアール星人が見せたその生態的特色「怪物が人を襲うと、襲われた人間もまた、その怪物に変化してしまい、また人を襲うようになり、それはねずみ算式に増殖していく」という設定がもたらす恐怖を描いており、それはまさに『The Night of Living Dead』(1968年)でジョージ・A・ロメロ監督が創造した、現代都市型ホラー怪物の頂点・ゾンビのそれと全く一緒である。

ここで驚くべきは、その「怪物が人を襲い、襲われた人もまた怪物になる」という(これはまさに旧来のバンパイアをベースにしているものの)、怪物が伝染病のように増殖していくシステムそのものによって生み出される、新しい「都市型恐怖」を描いたことであり、ホラー界を塗り替えたジョージ・A・ロメロ監督のその傑作と、ほぼ同時に(『緑の恐怖』は1967年10月放映。『The Night of Living Dead』は、1968年にアメリカで公開された映画であり、ほぼ同時期の作品同士である)本話はそれを描いているという点であろう。

人類の地球支配王者自我が持つ、無意識の傲慢さの影から、無言の怪物の増殖の波が襲いくる恐怖と、そこで人類が築き上げた社会システムでは、防ぐことのできない「究極の侵略」という二つの要素のコラボレートで描かれたSF娯楽作品が、ある意味、この「60年代の終末」において、日本とアメリカという全く異なる文化価値観を持つ二つの国で、同時発生したという事実は、実はじっくり考えてみると興味深い。

そこにはやはり(ロメロ監督のゾンビ映画の読み解きの基本のように)、ベトナム戦争という影が、既に創作者の無意識に住み着いていたのではなかろうか。科学文明と自由経済主義と民主主義(の名を借りたマイノリティ排除主義)を妄信し、神のようにあがめて邁進してきた人類社会。

その社会が共通認識恐怖として、その本能に内在させてきた畏怖心が、ベトナム戦争という「動かせない現実」によって自覚させられてしまい、それらを「見てみぬふり」しようとするものの、気づいてしまった事実は「なかったこと」には出来ないというアンビバレンツが、娯楽という形の中で「人類が排除してきた存在の代表記号としての植物」や、「人間が消え行く運命の象徴たる死体」という形をとって、人間社会へと迫りくる状況を描いた『緑の恐怖』と『The Night of Living Dead』。

金城氏は「セブンが戦争絵巻の側面を持っている」という事実から、必死に逃げようと苦心した結果、現実に戦争を行っているアメリカという国で、その戦争を戯画化したロメロの映画と、同じ構造を持った作品を作り上げてしまったのである。 金城氏は、ある意味で、セブン文芸陣の誰よりも、ベトナム戦争の構図を意識してしまっていたということになるだろう。

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