それでも演出計算が上手くいった場面をかき集めて、まずは「日常を破壊するゾンビの群」が、ブラピ家族に襲い掛かってくるのだが、そこでは(繰り返すが表現規制の為)バストショット以上のサイズで3秒間以上写されるゾンビは(この後全編に渡って約一名除き)ほぼ皆無な、カッティングと演出で「良く解らないけどなんだか暴徒の集団に巻き込まれた」と、そうとしか受け取れないジェットコースタームービー状態で、ブラピ家族は『28日後…』よろしく、アパートに立てこもり住む家族の部屋に逃げ込む。
ここまでに、「暴徒がゾンビである事」が観客に「だけ(ここ重要)」明かされつつ、ブラピがなんでか冷静に「ゾンビに噛まれた者は12秒でゾンビ化する」と正確に把握する。
この時点で襲いくる暴徒が、ゾンビなのか狂人なのか、感染するのかも、判明していない状態で、よくもまぁその因果律を算出したなぁ、さすがブラピだと感心するしかないのだが、一方では、ここまでのプロセスで、ブラピの娘が喘息を患っており、騒動のショックでその発作が起きてどうしましょう的なサブ要素も描かれるのだが、一応ショッピングセンターに飛び込み吸入薬をもらうシーンがあった後は、その設定は一切物語と関与しなくなる(ここ一つ目のポイントです)。
そして「他人の家に立てこもり中」のブラピに一本の連絡が入る。
その相手は、国連事務次長ティエリー(ファナ・モコエナ)なる人物で、NY沖に停泊中の、国連所有の空母からの連絡であった。
そこで出てくる台詞は、この手のお約束の「君の力を貸してくれ」的なありがちな願いで、そこへきてようやく、ブラピが元凄腕国連部隊アーミーだったことが明かされる。
この辺もまぁ、漫画の『MASTERキートン』か、映画の『ランボー 怒りの脱出』(1985年)『ニューヨーク1997』(1981年)辺りの主人公達とか、ゲームの『メタルギア・ソリッド』のスネイクかよってぇ感じなんだけれども、なんとまぁ国連空母はブラピ家族救出の為だけに、ヘリを出してくれるというVIP待遇。
しかし、ヘリ到着直前に、屋上へ向かう最中にゾンビ達が襲い来て、匿ってくれていたアパートの家族が息子を残して全滅(この辺も丸ごとカット)。
ヘリに乗れたのは、ブラピ家族と、その一家の男の子だけなんだけど、その男の子が、これまた「この後一切物語と関与しなくなる」(はいここで二つ目)。
NY沖で停泊中の空母に収容されたブラピは、家族を半ば人質に取られた状態で、強制的にゾンビ騒動の原因調査で韓国へ向かわされる羽目になる。
理由は「全世界騒動の発端時期に、韓国から『ゾンビ』という単語を使った発信がされたから」という、文字通り雲をつかむような話。
それでも他に手掛かりがないという理由で(冷静に考えれば、その任務はわざわざ、ブラピ一家を救うためだけにヘリ出動させて召喚しなければ出来ない内容でもないような)、ブラピは家族を空母に残し、韓国の米軍基地へとVIP待遇軍用機で向かう(そう、この映画で奇妙に感じたポイントとしては、ブラピが行く先々で出会う、世界中の「生き残った人達」が、なぜかブラピに対して必ず超VIP待遇で接し、自分達がゾンビに襲われ滅しようとも、ブラピだけは無事に逃がそうとして死んでいくという、「いや、現実社会のブラピはともかく、物語世界においてのブラピの役は、『フィフス・エレメント』(1997年)のミラ・ジョヴォヴィッチじゃねぇんだから」と、突っ込まざるを得ない程の扱いなのである)。
しかしそこでもゾンビ騒動の原因は確証を得られず……というのは、まぁ文句はないんだけど、この映画「既に世界全土を覆い尽くす勢いでゾンビが増えてる状況」と「その中で、なんとかゾンビから身を守ってる、世界中のコロニーを巡り周るブラピ」とを 、両立させながら、状況が悪化していくプロセスを描くものだから、誰がどう見ても、ブラピが疫病神で、彼が辿り着いた所は、例えそこが、軍人が集まる基地であっても、『進撃の巨人』に出てくるレベルの、壁で守られたイスラエルでも、そこから発着した民間旅客機の畿内であろうと、確実にゾンビまみれになって爆発四散する。
しかも、そこでブラピに課せられた「ゾンビ騒動の原因調査」は、概ね勘と運だけで行われ、行き当たりばったりとブラピの魅力だけで描写され、伏線とか、伏線っぽい物とか、確実に伏線にしか見えない物とかが、殆ど回収されない!
というか、回収された伏線もあるのだが、それが回収されない伏線と明らかな矛盾を起こす。
ネタバレギリギリアウトでいえば「どうなると人はゾンビに襲われないか」がそれに当たるが、そこまで散々散らしておいた伏線を前提に「その方法」を解析するのであれば、「人類皆で、いっせーのーせーで、自分の脚を片方折る」で充分じゃねぇかとしか言えない。
敬愛する映画評論家・町山智浩氏はTBSラジオ『赤江珠緒 たまむすび』『アメリカ流れ者』のコーナー内で「この映画に出てくるゾンビには、世界中に蔓延する貧困層をメタ的に被らせている」と、なるほど凄く納得できる語り口調で解説していてくださったものだ。
確かに映画冒頭でサブリミナル効果のように挿入される、鳥インフルエンザや地球温暖化、世界を覆う「悪い予感の影」が「何かしらの形を経て、ゾンビという形で、人類に意趣返しを仕掛けてきた」とまでは読み取れるのだが、しかし、その「ゾンビ=世界に蔓延する貧困層」というメタ的解釈を当てはめてしまうと、この空前絶後のゾンビ映画の、クライマックスを飾るべき、ゾンビ映画史上空前絶後のカタルシスをもたらす人類逆転劇が、「結局資本主義社会で、最後に勝つのはやっぱり富裕層」とも読み取れる形にオチがついてしまう。
というか、そのオチの部分が、空前絶後のカットをされた(後述)ので、映画本編自体は、なんとも不完全燃焼で終わってしまうことこの上ないのだ。
何しろこの映画、とにかく「空前絶後」を目指し過ぎてしまった為、制作・演出の意図とは関係ない「空前絶後(というか最早トンデモ)」にまみれている。
何度も書いたとおり、ブラピの行く先々は、ブラピが到着したことを契機にゾンビに襲われ、そこから行き当たりばったりでブラピは脱出するのに、その先は更に重要ポイントという奇跡。
ある種の既視感でこの映画の概略を語ってしまえば、この映画は「人類の破滅の危機と、そこからの奇跡の軌跡」を描いたという点においては、『ゾンビ』(1978年)よりも『日本沈没』(1973年)『アルマゲドン』(1998年)『インディペンデンス・デイ』(1996年)といった映画群に近く、しかしここからが重要なポイントになるのだが、この映画が「ブラピによるブラピの為のブラピの映画」である以上、ブラピ一人が英雄として世界を救わねばならず、そういう意味では『アルマゲドン』のブルース・ウィリスや、『インディペンデンス・デイ』のビル・プルマンに立ち位置は近いのだけれども、小松左京的人類滅亡クライシス路線で例えるならば、中盤からラストに至るまでは、『復活の日』(1981年)に酷似した展開が、いくつか見受けられるのだ(実際の逸話によると、原作者のマックス・ブルックス氏は、小松左京氏の大ファンであるらしい)。
挙句には『日本沈没』でいうと、藤岡弘、が酔っぱらって歓楽街を彷徨う、1973年版映画ではなく、SMAP草なぎ剛君が「奇跡は起きます! 起こしてみせます!」とか、寝言を抜かした勢いで、エヴァのアイテムで「引っ込まない道理」を引っ込めて日本の沈没を「あり得ない展開で回避」し、制作側の自己陶酔に終始してしまった2006年版の方に近いのである!
また、この手のジェットコースタームービーが『ダイ・ハード』(1988年)以降お約束にして、不文律化させてしまった「主人公だけがあり得ないレベルでの運の良さで、どんな窮地に陥っても生き延びる展開」も多すぎる。
ジャンボジェットクラスの旅客機内が、ゾンビに埋め尽くされ、それを何とかする為にブラピが、手榴弾を投げ、爆破させた結果(え?)ものの見事に旅客機は、墜落地面直撃爆発するのだが、ブラピと、そこでヒロイン役を担うセガン(ダニエラ・ケルテス)は、何故かどうして、傷を負いながらも致命傷には至らず二人とも助かる(正直この辺りから、大河さん「あぁ。これはブラピさえ格好良ければいいだけの映画なんだ」と、今更ながら理解する)。
しかも、その墜落現場から、重傷の二人が肩を貸しあって、数カットで歩いて辿り着ける所に、二人の目的先だったWHO研究所があるという、ミラクル奇跡的な、最早どうでもいい展開!
しかも、旅客機墜落直後には、腹部にガッツリと、どう考えても致命傷レベルの機体の破片が突き刺さって、身体を貫通していたのに、その3日後には研究所内を、全力で疾走しフルパワーで、ゾンビ相手に負けないブラピさん!
物語的には、そこの研究所でゾンビ対策の究極案が(勿論ブラピによって)発案され、ブラピ自身によって人体実験され、ブラピが命を懸けた結果、ブラピだから生き延び、そこで「ブラピが助かるので人類も助かる」というロジックに至るのだが……あ、余談だけど、イスラエル基地からこっち、旅客機墜落でまでブラピと共に生き残り、家族の出番シーンがどんどん減っていく中、メインヒロインの画の座を獲得したセガンさん。この研究所のシーンの後、残り僅かな尺ですけれど、ラストには一切関与しません。例によって。
っていうか「家族を救うか 世界を救うか」って。
イスラエル以降、セガンさんが同伴してる間は、ラストで家族と再会して抱き合うまでは、全力で家族の事忘れてましたよね?ブラピさん!
そんなこんなで、ブラピが思いつきだけで行動するだけで、人類が救われたこの映画。
だが、しかし、確かにブラピにばかり文句を言うのもおとなげないというもので、例えば、上記した残酷シーンの規制や年齢制限の問題で、「劇中最後のクライマックスで、人類がゾンビ達を駆逐していく逆転大勝利カタルシス」が、巨額の予算と手間暇をかけて撮影されたのにも拘らず、バッサリとカットされ、どうにもこうにも、尻切れトンボの印象が拭えないラストに仕上がっているとか、こっちの件はブラピの事務所サイドからの要請なのか、町山氏が語っていた「冒頭近くで、ブラピが悪事を働くシーンがカット」されていたり(多分これは、突然のゾンビ騒動で、家族を連れて逃げる時に、車で誰かを轢いてしまったとか、自分の車が盗まれたので、他人の車を盗んだとか、そういうレベルのアレのような気がするが)とか、一応フィクションとはいえ、ジャンルがジャンルなものだから、ゾンビ発生の根幹の場所を、当初中国に設定しておいたら、パラマウント側の中国公開対策で、ギリギリでシナリオが変更を命じられたりという逸話や、Wikiを眺めていても「(脚本家の)リンデロフは脚本の結末部分が、『急激かつ支離滅裂』であると説明し、30から40分の追加映像が必要であることを示した」と書かれてあったりと、脚本、撮影、そして編集から完成へとかけて、とてもじゃないが内容に整合性が取れないレベルで、改変と改編が重ねられていったのだろう内部事情が伺える。
しかし、えてしてその手のトラブルは、ハリウッド映画制作にはつきものなので、そういったアレコレを、クリアしてこそナンボの世界と言ってしまえばそれまでなれど、まるで韓国ドラマのように撮る先、繋ぐ先から、コロコロ内容が変えられれば、いくら「所詮はゾンビ映画」でも、目も当てられない程に整合性の無い物に仕上がってしまうのも、これまた道理。
「ゾンビの恐怖を、肉薄する観客目線のUP描写で描けない縛りを逆手にとって、マクロレンズで俯瞰構図に徹し、その存在性を『状況』に置換して、恐怖描写を貫いた」姿勢や、そういった「新たな視線と手法」を手に入れ、ゾンビ映画に新機軸を投じようとした意気や、「ゾンビ同士は何故、互いを食い合おうとしないのか」という、誰もが一度は思う謎へ、回答を提示した姿勢や、何より、ブラッド・ピットという、世界に冠たる大スターが、世界を相手に新作を企画する時に「ゾンビ映画」という「映画界に於いて、日陰にしか置いてはならない存在」に着目して、自らを以て挑もうとしたその気概等は、称賛するに相応しい結実を見るのであるが、如何せん、所詮はカテゴリがB級クラスタなジャンルなものだからか、『ワールド・ウォーZ』は、「映画の倫理」「表現の規制と制限」に振り回されまくった挙句、テーマも「地球を覆う貧困」なのか「家族愛」なのか「ゾンビと人間を隔てる要素」なのか、観客には皆目見当がつかないレベルで絞りきれないまま、映画は幕を閉じるのである。
結論:まるで松本ちえ子の『恋人試験』のサビ曰く「65点」