Alfred Besterが『モンテ・クリスト伯』をベースにしながらも、あえて主人公を醜悪に描いたのも、改めて俯瞰してみれば、未来や宇宙、超能力といったガジェットが散りばめられている本作の中において、およそ登場する人物達は、その殆どが、欲望と俗にまみれた、およそ未来という舞台が抱かせるに値しない、ロクデナシとして描かれていることから考えれば、主人公に限ったコンセプトではないことが分かる。
この、徹底した「文学史上、崇高な復讐譚」である『モンテ・クリスト伯』を、清廉潔白なイメージが溢れていた50年代のSFでパスティーシュしようとしたときに、ここまで「宇宙時代になってなお、薄汚い人間しか出てこない人類社会」を描いたモチベーションに、平井和正氏は一番共感したのかもしれない。
1968年.平井和正氏がまだ漫画原作者でもあった後期。自身が原作を担当して、石森章太郎氏が画を担当した、日本SF漫画史上に残る傑作に『幻魔大戦』がある。
『幻魔大戦』は、およそ他者の原作を借りて漫画を描くことを、それまでメインには受け付けてこなかった石森章太郎氏が「平井和正氏となら」という条件で、しかも「原作者が全部物語を考えて、自分が画だけ担当するのではなく、常にコンビでコラボレートすることで創っていくのであれば」という条件で引き受けたそうなのである。
その結果、『幻魔大戦』では、主人公の東丈が、重度のシスコンであったり(当然ここは、自他ともに認める重度のシスコンであった、石森章太郎氏の意向が反映されたと思われる)、石森テイストも満載の設定、物語が展開するのだが(私見だが、当初は反戦テーマの抜け忍SFアクション漫画だった『サイボーグ009』が、この時期以降一時的に『天使編』『神々との戦い編』等、ハルマゲドン路線へ邁進したのも、石森氏的には、ここで『幻魔大戦』という作品とコンセプトワークが、消化不良のまま終わってしまったことの影響だと思っている)、『幻魔大戦』では中盤から、地球人超能力者のメンバーの一人に、Dr.レオナード・タイガーという人物が登場する。
この、通称「ドク・タイガー」なる人物、元々はアメリカで超心理学研究所を運営していた所長だったが、ESP能力に目覚め、東丈達超能力戦士達に加わろうとして近づいていく。
しかし、権勢欲や金銭欲、性欲など全てが醜く強く、俗っぽすぎるために、地球人超能力戦士達を率いるプリンセス・ルーナからは仲間入りを拒絶されるのだが、ギャクギレしたドク・タイガーは、逆恨みから幻魔サイドに寝返り、しかし幻魔からも見下され、物語からも消えていく、『ゲゲゲの鬼太郎』のネズミ男のような存在。
平井氏は劇中で、他の超能力戦士に「とらというやつは下品だからなあ」とも言わせているが、このドク・タイガーが、明確に『虎よ、虎よ!』のガリーをモデルにしていると分かるのは、そのドク・タイガーが劇中で、何かと興奮するたびに、顔や体に虎模様のあざが浮き上がり(劇中で、超能力だと分からない研究所の部下曰く「アレルギー性じんましん」と言わせている)、虎の姿に最終的に変身してしまうところ。
石森章太郎氏による『仮面ライダー』執筆は1971年なので、このオマージュはそれより前。もちろん、石森氏自身も『虎よ、虎よ!』にそれ以前から傾倒していたことは、『サイボーグ009』の設定で証明済み。
日本を代表するハルマゲドンジャンルSF大作『幻魔大戦』は、平井和正氏と石森章太郎氏の、二人による『虎よ、虎よ!』へのオマージュスピリッツが、合わさって出来上がった作品だともいえる(元々の『虎よ、虎よ!』自体が抱いていた「全人類がエスパー化して、二分されて戦争をしている世界観」も、『幻魔大戦』のモチーフに近いともいえる)。
『虎よ、虎よ!』の、他の特徴として、小説なのに文章のフォントが自在に操られて、その文章の内容ではなく、モンタージュ的な文字列の形成が、イマドキのラノベの手法の元祖だなどとも言われているのだけれども、この辺りも平井・石森コンビは、『幻魔大戦』序盤の、プリンセス・ルーナが覚醒する辺りでの、フキダシの中の台詞の並べ方などできっちり踏襲している。
平井・石森の各オマージュ作品とは違い、オマージュ元『虎よ、虎よ!』には、明確な生物としての虎は登場しない。
この作品が伝えたかった「虎」とはなんなのか。
石森章太郎漫画に与えた影響、平井和正小説に与えた影響。
それぞれのファンであれば、そこに想いを巡らせて、50年代に発表された「元祖・人類ダメSF」の始祖にして最強なこの作品に、触れてみることをお勧めしておく。