自分と押井監督、そして石井聰亙監督との世代差を前提にして、この作品と『爆裂都市 BURST CITY』とを比較して観ると、「きちんと整理整頓された時代に育ち、都市国家に育まれて、鬱屈していないように見えていたはずのシラケ80年代の住民達が、世代ごとにその内側で何を抱えていたのか」の輪郭がはっきりしてくる(押井守監督は1951年生まれ。『爆裂都市 BURST CITY』の石井聰亙監督は1957年生まれ)。
この映画が孕んでいた「犬・猫論」や「モノトーンと赤」や「立ち食いへの思い入れ」や「走行する自動車(特にタクシー)の中のドラマ展開」「台詞と演技で表現されているドラマとは、別個に並行表現される、視覚効果の深層心理に訴える『もう一つのドラマ』」等々、その前後の押井アニメで、何度も観客が受け止めることになる主要素のいくつかは、この作品を契機にして、後々の押井映画群に盛り込まれるようになったガジェットも多い。
例えば、同じアニメ畑の富野由悠季氏などは若いアニメファン等に
「アマチュアの期間で出来るだけのインプットをおこなっておきなさい。一度送り手になってしまうと、アウトプットしか出来なくない立場に立たされるから」
と、教えを説いていたものだったが、この映画で押井監督は、野球のバットスウィングやサッカーのシュートで「より前へ向けて飛ばすため」に「一度後ろへ向けて引く」を実践しているのだろう。
その上で、やがて『機動警察パトレイバー 2 the Movie』(1993年)や『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)でもメインテーマ化していった「現実と非現実の、交錯と認識。そしてそれらを越えた『手応え』への傾倒」が、本作では、一見するとシュールだったりコントレベルのギャグだったりで、中和されているように見えるドタバタの水面下で、密やかに儚げに垣間見られるのだ。
「それ」は、本作のタイトルにもなって象徴されている、「紅」を纏った少女が(意図的にモノトーンで全編が描かれていたために)観客も、千葉繁の主人公さえも気づかないまま、常に傍で真紅さをずっと放っていたことへの失念の口惜しさが、この映画のラストシーンでの、主人公と観客の「寂寥感のシンクロ」を増加させるのである。
主人公の千葉繁が求め、彷徨い探していた「紅」は。
千葉繁本人が大量に持ち込み、出会う人々に手渡すはずであった「紅」は。
最初から、冒頭からずっと、主人公の傍に存在し続けていたのだという「悲しい真実」が、ラスト、少女の姿がカラー化することで、鮮明に浮き上がるのだ。