千葉か!? また千葉なのか!?
どこまで行っても俺は、千葉真一の映画しか語れないのか!?
というかこのサイトは『市川大河の千葉真一大好きサイト』に改題するべきなのか?
まぁ「それはそれ(どれ?)」ということで、とにかく語ってみたいと思うが、森羅万象世界には何事も「ことの始まり」と「ことの終わり」というのがあって、往々にして「歴史の記録」という奴は、その「始まり」と「終わり」しか記録しないものだが、例えば「千葉真一」に関しても「深作欣二」に関しても「真田広之」に関しても、そこでおおよそ経歴に、デビュー作や遺作が刻まれることがあって、その他に「代表作」が記録されることがあったとしても、そこで記載されるのはもちろん『キイハンター』(1968年)や『仁義なき戦い 広島死闘篇』(1973年)であったり『蒲田行進曲』(1982年)や『いつかギラギラする日』(1992年)であったり『里見八犬伝』(1983年)や『麻雀放浪記』(1983年)であったりするのであろう。
しかし、歴史というものはいつであっても全てが地続きであり因果であり、過去を覆い隠し否定しても、それで華やかな後の栄光だけがスポットを浴びることはない。
むしろ、歴史の記録には埋もれた死屍累々の山こそが、歴史の真の証人なのではないであろうか?
今回は「当初は関係者全員の代表作になる予定であったはずが、いざ蓋を開けてみると、結果的に関係者全員の歴史の影に埋もれてしまった『歴史的な作品になるはずだった映画』に関する話」である。
黒船が来るぞ!
時は1977年。 日本映画界は、ある種の倦怠と現実逃避に潜り込んでいた。
かつての銀幕の浮世の華時代も過去の夢。
映画界は、五社協定の枠の外から飛び込んできた角川映画に席巻されて、取り残された各社は、日々の糧を得るために必死であった。東映の実録ヤクザ映画も、東宝のゴジラも若大将も、松竹の寅さんも、にっかつロマンポルノも、どれもこれも過去の遺物か惰性の産物状態で、とりあえず、今日を食いつなげられればそれでいいじゃないかと誰もがシニカルに呟く、そんな時であった。
「『スター・ウォーズ』が来るぞぉお!」
まるで実相寺昭雄監督『帝都物語』(1988年)の、唐突過ぎる開幕の「加藤がくるぞぉ!」という咆哮のように、その叫びは、日本の映画界を震撼させて轟き渡った。
黒船来訪。
誰もが明治時代の始まりの「あの瞬間」の悪夢を思い返した。
しかし、当時の日本映画界に於いては誰もが、唐突にそんなことを言われても『スター・ウォーズ』とか言われても、何がなんだか想像も追いつかなければ、連想もできやしない。「『スター・ウォーズ』とはなんぞや?」と誰に聞いてみても、実態は良く分からないし、聞けたとしても理解が出来ない。
冗談抜きで、当時の日本人の大多数の大人にとって「SF」とは、放射能で巨大化した爬虫類が、ビルをなぎ倒して口から炎を吐くか、5機のマシーンが合体してスーパーロボに変形するかの、どちらかの認識であった。 挙句に「スペースオペラ」とか言われた日には、下手をすると「宇宙歌劇」だとか解釈しかねないのが、当時の一般市民だったのである。
しかし、なんとしてでも、黒船の迎撃はせねばならない。
太平洋戦争では回避できたはずの本土決戦が、今度は避けられないレベルで迫ってきたのだ。
当時はまだまだ、ハリウッド映画が日本で同時に公開されるケースは稀で、全米公開の後半年から一年を経て、ようやく上陸してくるのが常識。そのインターバルの間に、各洋画配給会社は欧米での人気や実績をじっくり見てから、日本での配給規模や宣伝を決めるのだ。
ところが、『スター・ウォーズ』は全米公開直後から、日本でも話題沸騰になった。日本公開を待ちきれずに、わざわざ映画一本を観るためだけに渡米する者まで現れた。日本公開前からして、まさに「ブームを超えた社会現象」になってしまったのだ。
配給会社はウハウハ(死語)だろうが、邦画会社はたまったものではない。なんとかせねばならない。どうすればいいのか分からなくともなんとかせねばならない。無論、凋落の一途を辿った邦画製作体制が、その黒船を迎撃できる作品を築ける訳もなく、かといって上陸を阻止すること等できやしない。
ならばどうするか? 負け犬の性根は、どんな状況でも負け犬の発想を生み出す。
「すたー・うぉーずだスター・ウォーズだとか騒いだとて、しょせん、まだ実物を観た日本人は極少数だ。ならばその本物が日本へ攻めてくる前に、うちらでパチモンを先に作ってしまえばいいじゃないか。後だしならば恥もかくが、先出しならば、本家を待ちきれない観客を煽って呼び寄せ、一儲けできるんじゃないんかいなぁ? 本家が来た後は知らんぷりってことで」そう考えたのだ。マジでそう考えたのだ。「先出しでも充分、恥をかく可能性がある」とは誰も考えなかったのだ、その時は。