今ざっと書いたどれもこれもが、結果的に低視聴率で……という結末が象徴するように、80年代に入ってからしばらくは、刑事ドラマは、ジャンルとしてのその斬新性を失ってしまい、そして石原裕次郎大明神の崩御で御威光を失った『太陽にほえろ!』が失速すると、結局刑事物は「銃撃乱射と爆薬で全てを解決する『西部警察』」か「執念と人情と粘着質で粘る『特捜最前線』」かに、二極化してしまった。
「『西部警察』か『特捜最前線』か」という究極の二択(むしろDouble bind?)。
その時代がしばらく続いたのだが、やがて80年代も中盤を迎えた頃に、一つの番組企画が立ち上がり、それが結果的に「一つのきっかけ」となる。それは、今回の刑事ドラマ総論の初頭で紹介した『俺たちの勲章』の続編企画だった。
『誇りの報酬』(1985年)
それは本当に、最初は『続・俺たちの勲章』の企画からスタートしたのだった。
もちろん、主役は中村雅俊と松田優作を想定して企画が進められたが、雅俊はともかく、少し考えればこんな企画を優作が引き受けるはずがない。もともと優作は「終わった作品のキャラの印象に、松田優作というブランドイメージが引きずられてしまうこと」を、誰よりも嫌うタイプの俳優だったのだ。
だから、一時期流行ったジーパン刑事殉職シーンの物真似も、いつまでも「探偵の工藤ちゃん」のイメージで見られることも、どちらもことのほか嫌っていたのだ。
そんな優作が、どんな作品であれ「終わった過去の作品の続編」を演じるわけなどないのである。しかも優作は当時、初監督作品と(結果的に)なった映画『ア・ホーマンス』(1986年)で忙しかったこともあり、オファーは失敗に終わった。
しかし、企画立案に於いては様々な立場が様々な事情を抱えていたのだろう。
結局『続・俺たちの勲章』は『誇りの報酬』とタイトルを変えて、優作が演じるはずだった「10年後の中野」を、萩原秋夫という名前で根津甚八が演じ、雅俊も、アラシではなく芹沢春樹という名前のキャラに転生することになった。
脇役陣にも、柳生博や篠ひろ子といった『俺たちの勲章』時代の俳優を揃え、長野洋メイン脚本、澤田幸弘メイン監督で『俺たちの勲章』と同じ東宝・日本テレビラインで製作されたこの番組は、なかなかの高視聴率を上げ、当初全2クール(26回)予定で開始されたものが、結局倍の4クール(全49話)放映に、延長されることになった。
「バディ(相棒)刑事物はイケるぞ!」
そういう判断を下す材料は、実際の数字で証明されたのだ。
東宝・日テレ系では以前に「ロサンゼルス帰りの草刈正雄」と「博多男児の田中邦衛(え……田中邦衛が九州男児?)」というコンビで(脚本に播磨幸治、監督に児玉進を迎えて)製作した『華麗なる刑事』(1977年)があったし、東映セントラル・日テレラインでも既に、その草刈正雄に、こちらは藤竜也とコンビを組ませた『プロハンター』(1981年)という、傑作バディ刑事物ドラマ(なんと脚本は丸山昇一、大和屋竺などで、監督は村川透、崔洋一、長谷部安春という贅沢三昧な作品)は存在していたので、「東宝で当たったのだから」という、日テレおなじみの大岡裁きで「今度は東映さんでバディ刑事物を」という依頼が、東映セントラルへ舞い込んだ。
東映セントラルはそもそも、東映の本筋ラインの作風から外れた連中が、村川透や仙元誠三、小池要之助や丸山昇一、西村潔や澤田幸弘など、「おなじみ」で固まって動かしていた、黒澤満人脈だけの会社であったが、とにかく「時流に乗らない奴は置いていけ」の東映流で、企画を進めることになった。
主役のコンビは『プロハンター』で草刈・藤コンビの脇を固めていた柴田恭兵と、石原軍団から舘ひろしを呼び寄せて組ませることにする。
そこへ映画『ビー・バップ・ハイスクール』(1985年)で大人気デビューを飾った仲村トオルを若手として据えることで、丸山昇一が組み上げた企画こそが刑事ドラマ史上空前の大ヒットを飛ばして後々まで伝説になった『あぶない刑事』(1986年)誕生の経緯だったのである。