――スケカン(助監督を揶揄する意味の隠語)って言われてた時代ですね(笑)

安藤 そうそう(笑) そういう時代ですからね。そういう流れで円谷と縁ができたのは、松竹と台湾の合作映画がきっかけなんですね。その合作映画の監督は湯浅浪男っていう、安藤昇の自叙伝みたいなの(『血と掟』(1965年 松竹)他)を撮った人なんだけど、その人は、桑野みゆき小津安二郎映画などの女優)のお父さんの、斉藤(芳太郎)さんっていう松竹の重役が、CAGを作った時に監督に就任したんですね。

『血の掟』(1965年)

――『ヤサぐれシリーズ』(1964年松竹CAG)ですね。

『ヤサぐれの掟』(1965年)

安藤 そうそう! その頃に松竹が、自分のところで作るよりは下請けに出した方がいいっていうんで、湯浅浪男と斉藤芳太郎がCAGを作ったんだけど、そこで映画のことがわかる助監督が欲しいって話になったんですよ、湯浅浪男が素人だから。ちゃんと、監督にアドバイスできる助監督が欲しいと。CAGは(湯浅監督の作品の流れで)安藤組(正式名称・株式会社東興業 安藤昇氏の組織)が解散したおかげで、制作部が皆、ヤッちゃんなんだよね(笑) だから僕なんかが打ち合わせで渋谷とか六本木とか(当事の安藤組の領地)歩いてるとさ、皆挨拶にくるんだよね(笑) もう僕は恥ずかしくてさ、あの辺歩けなかった一時期(笑)

こうして始まりました、安藤達己監督インタビュー。監督の人生も毀誉褒貶。フィルムの手触りを追いかけて、安藤達己の旅は台湾へまで流れます。次回「安藤達己と湯浅浪男と『ウルトラセブン』と」さぁみんなで読もう!

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