ライトノベル全盛の現代において、異性を知らない知ろうともしない送り手と受け手が、そこで妄想だけを素材に「願望とご都合主義」で捏造した、フランケンシュタインを共有しあい、それを「女性です」と開き直り量産して、「ツンデレ」だの「ボクっ子」だのという記号属性で複製する過程を見てしまうと、むしろ東野氏が、その執筆モチベーションの中に常に含有している「いや、いくら洞察しても考えても、僕ら男には女の子って永遠に分からないよ」は、むしろ潔く、そして「男と女で成立している社会への投げかけ」としては、よほど有効に機能しているように感じられるのである。

それは本作では「(あくまで男性読者にとっての)衝撃のラスト」に一番色濃く反映されていて、確かに本作は、東野氏のデビュー作でもあるし、80年代中期の作品でもあるので、少女達の描写手法や犯行トリックの非現実性、殺人という非日常と日常の距離感など、まだまだ栗本・小峰・赤川的作風のテリトリーからエグソダスしきれてない部分も多いが、少なくとも、そのラストの落とし込み方のみに関して言うならば(「女の子って分からない」式女性観も含めて)既存の枠を打ち破る「推理小説は、全てを推理できる世界の中の出来事だけを書けばいいのではない」を、描こうとする作家が現れたのだなと、思わせてくれる仕上がりになっている。

一方で、本作への苦言も少々。
もっとも、これは近年の東野作品にも言えることなので、新人時代ゆえの未熟さというよりは、東野氏固有の作風・癖なのだろうけど、東野氏の文章構造は、ちょっと余りにも伏線を、理的な計算で配置しすぎである。
そこでは伏線の論理的有効性や、文章構造的な有用性と同等かそれ以上に「ここに伏線を置くけど、読者には余り気付かせないようにしよう」とか、「これが伏線だったことを、最後に読者に驚いてもらおう」とか、「ここでちょっと読者の思考に、引っ掛かりを与えよう」とかの、差配的な計算高さまでもが、ちょっとあからさまに見えすぎるきらいがある。

無論、それは東野氏の文章基礎構造力の高さを示してはいるのだけれども、しかし、芸術や文化作品が「作者の苦労や苦悩が、完成した作品から見えることは良くない」のと同等に「あくまで作者はさりげなく配置したつもりの伏線」に「分かりやすいあざとさ」が見え隠れしてしまうというのは、ちょっとどうだろうか。
確かに本作で「事件の核となる女子高生」は、容易には目立たないように配置され、しかしそこでは作者が、巧みに伏線を張って書かれた様子が窺えるのだが、けれどもぶっちゃけ「ちょうどいい感じで不自然過ぎる」のだ(笑)
いかにも「本当はこの子が核なんだけど、読者が最後に驚くように仕込んでます」的な、作者の思惑まで透けて見える描き方をされている。

要は、推理物に登場する探偵がおこなう、推理のセオリーと一緒であって、「本当に意味がないことであれば、作者はわざわざ尺を割いて描写はしない。それがどんな細かいことであれ、わざわざ描写されていれば、そしてその描写の内容と配置に不自然な違和感があれば、それは必ず、事件の核心と関わりがある伏線である」という不文律を守って読めば、東野推理小説のほとんどは、中盤で大まかな謎解きは出来てしまうのである(東野作品の場合「大まか」から外れる要素は「作者が伏線を張っておらず、ラストに唐突に持ち出す要素」ばかりである(笑))。

本作では、その「一見どうでもいい脇キャラに見えた少女」の、いかにも過ぎる「この子はどうでもいい脇役ですよ」強調が胡散臭すぎで、それは「(衝撃のラストに繋がる)主人公教師の妻の細かい違和感描写」と共に、「あぁやっぱりね」と苦笑むしかない、種明かしの「だろうと思った」に結びつくのだ。
 もっとも、少なくとも少女の側の謎バレに関しては、筆者がその昔、リスカ少年少女達との付き合いがあったからこそ「さりげなく(と東野氏が自惚れた)描写された、リストバンド」が「わざわざ描写されてる違和感」に気付けたのかもしれないが。

一応、東野氏にも学習能力はあるようで(いろんな意味で失礼だな市川大河(笑))その「最後に回収するべき伏線をあまりにもあざとく配置しすぎる癖」は、その後の作品群でも基本的には治らないものの、短編シリーズでもある『探偵ガリレオ』では「伏線をそもそも張らない」という、飛び道具のような離れ業に辿り着いてしまい(笑)それはそれでどうよと苦笑せざるをえない。
もちろん「それが推理小説である以上、読者が自発的に謎の回答に辿り着けるように、予め作品内全編に、手がかりと伏線を配置するのは推理作家のマナー」ではあるのだが、しかしその正論で東野氏をフォローしてしまうと、今度は今度で、宮部みゆき女史の作品の持つ「全ての伏線と手がかりを、一つの大きな『情念の流れ』の中に組み込み同化させる」テクニックとスキルに関して、東野氏は、全く拮抗することができなくなってしまうのだ。

それはそれで、地味に東野氏がかわいそうである(笑)

とりあえず、東野圭吾氏のデビュー作品に関しては「80年代青春群像推理小説」の「らしさ」に紛れながらも、その後開花する東野イズムと、その後も引き摺ってしまう東野弱点の、双方を既に持ち合わせていた処女作として、東野ファンであれば必見の作品として、お勧めしたい。

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