それら「聖少女達のパロディ」がもたらした劇的な変貌は、今回の「表層的ロリコン論」Vol.1で挙げた、ロリコン漫画雑誌や、少女ヌード写真集や、ローティーン少女主役のロリコンアダルトアニメ等の「総合的ロリコン市場」ビッグバンにも繋がるのではあるのだが。
人間社会の文化・サブカルチャーの市場というのは、とても面白くできていて、そうして一つの膨大な流れが発生してからでも、ある意味「揺り返し」のような形で、今度は傍流という立ち位置で「本質回帰」が試みられることもあるのである。
「その揺り返し」は、ロリコンブームのメイン市場である、漫画界からひっそり巻き起こった。
少女漫画家としては、いわゆる「24年組」と区分けされ、当時既に『風と木の詩』『地球へ…』などで巨匠扱いだった竹宮恵子氏が、1981年から『ビッグコミックフォアレディ』で、正式連載を開始した『私を月まで連れてって!』。
そしてもう一つ。70年代から劇画作家として活躍し、80年代以降は、アニメの現場にも飛び込んでいくようになった、御厨さと美氏が1980年から『ビッグコミックオリジナル』で連載していた『裂けた旅券』。
両方とも、大人の男性とローティーンの少女の恋愛を主軸に置きながら、かたや宇宙時代の未来SF、かたや現代を舞台にした、東西冷戦を背景にしたスパイアクション風味というジャンルの違いはあるにせよ。そこでは徹底して「ただ消費対象にはならない、ローティーン少女の魅力と価値」が描かれていた。
双方、一見するだけでは、巷に溢れたロリコン漫画ブームの副産物なだけのようにも見える。両作品とも、大人の男性とローティーン少女は、本気で恋愛し、常に熱く愛し合いながら、キスも交わし、『裂けた旅券』では、最初の出会いでだけであるが、性交渉があったことも描かれる。
しかし、そこでのヒロイン像は、決して男性の欲望の処理対象として描かれることはなく、理不尽に向かっては本気で怒り、凛として自己主張をして、喜怒哀楽は明確に現し、一回り以上に年齢の離れたパートナー男性を、尻に敷くこともいとわない。しかし、その、愛する男性の危機や窮地においては、命を投げ出す覚悟で飛び込んで、持ち前のバイタリズムとパワーで見事に救い出す。普段は陽気で我儘で、嫉妬深く子どもっぽいが、パートナーの男性は彼女のことを、いっさい見下さず、対等な立場で向き合って、両作品とも、最終的には「男と女の、人生の行く先は、非現実的な未来宇宙であっても、東西冷戦スパイ社会であったとしても、いつの時代でも変わる事のない『当たり前の、人の生業』なのだ」へと、帰結していくのである。
『私を月まで連れてって!』『裂けた旅券』二つの漫画作品は、一方で70年代的な「少女に『なに』を求めて、被り描かせるのか」へのエクスキューズが受け継がれており、一方で80年代的な「人には人の数だけ自由があり、カップルも、組み合わせの数だけ形がある」をも描いている、橋渡し的な作品として、見事な出来に仕上がっているのであるが、それはやはり、それらの漫画を描いた、竹宮・御厨両氏が、70年代の初期には既に、漫画家として、周囲のカルチャー表現のあり方と意義と空気を、己の身で受け止めていたからではないだろうか。
しかし、この二つの作品は、即物的な「ローティーン少女の性愛」を求めるロリコン市場には、あまり見向きもされず、古い体質の漫画市場からは異端視され(ブーム便乗型のロリコン漫画の方が、もちろん異端扱いではあったが、むしろ過度なロリコン漫画は、市場では隔離される形で、市場を隔て合っていた)、漫画史的には佳作の扱いの域を出ないまま、時代は進んでいったのである。
「ブーム便乗の、ロリコン漫画のようなルックス」から始まった『私を月まで連れてって!』『裂けた旅券』は、最終的には、普遍的な「人生論」「人間論」へとたどり着いて終幕していくのであるが、1983年前半をピークとした「ロリコンブーム」もまた、ピークがある以上、一度幕を閉じなくてはならなかった。