しかし、そんな傲慢な屁理屈感情など、誰も許容しないし、受け入れるお人よしな女性もいない。
これを読んでいる皆さんであれば、筆者がここまで書いてきたことが至極当たり前のことであり、今更何を偉そうに論ぶっているのかと、失笑されそうであるのは承知の上なのだが。その上で「その通過儀礼」を回避しながら、セックスや恋愛の、メリットだけを享受できる、都合の良い話など、あるわけないという「常識見解」もごもっともなのだが。
人間の業というのは奥深いもので、彼らは「見つけてしまった」のである。その、通過儀礼を拒否しつつ、己の欲望と願望だけを満たす手段を。
それが「ロリコン」なのである。
ロリコンの対象、ローティーンの少女であれば(最近は、小学生にして経験豊富な子もいるので、一概に言い切れないが)、まだセックスのセオリーも当たり前も知らない。場合によっては、恋愛感情さえ芽生えたことがない子も、中にはいるだろう。
当然、そういった少女達の、記憶のストレージには「過去の男が自分に対して、どんなセックスをしてきたか」の、情報データベースは空である。だから、自分(ロリコン)が何をしようと、どんなエゴイスティックな変態プレイをしようとも「セックスっていうのは、愛し合うっていうのは、これが普通なんだよ」を通用させてしまえるだけのロジックが、用意されているのである。
ここは、2000年代に入ってから、ロリコンと親和性を高めた処女崇拝信仰、ネットスラングで言うところの「処女厨」との共通点を考えれば、自然に理解できる。ロリコンの絶対条件は、対象の少女がローティーン(場合によってはそれ以下)であったわけだが、それは「ローティーン少女であれば、処女を兼ねているのが当たり前」だった前提とワンセットなのである。性体験年齢がどんどん低くなった現代においては、ロリコンは、その欲望の正体を隠しきれずに、本来の目的が「処女であること」であることを前面に押し出し、一度でも性体験のある少女に対しては、「ビッチ」「中古車」等、卑劣な罵倒を浴びせることも、いとわなくなってきているのだ。
さらに付け加えるのであれば、2000年代からロリコンと組みあわさる形で、アダルトゲーム等のジャンルで肥大化してきた「妹萌え」「幼馴染萌え」。これらは決して、70年代の佐々木守氏や内田栄一氏作品における「妹」のような意義性はなく、簡単に言えば「自分(ロリコン)が何をしても、壊れることのない関係性を求めている」それだけなのだ。
上でも書いたが、人間同士の関係性は、程よい緊張感とストレスと気遣いがあって、一定に保たれているといっていい。しかし、社会性をほぼ持たないクズロリコンは「裏技」を求めた。
それが「妹」「幼馴染」だ。
単純に考えるなら、兄妹や親子でも、互いを拒否する感情を持つ関係は、社会に無数にある。しかし、逆を言えばどんなに相手のことを毛嫌いするようになっても「親子関係を解消する」「嫌いな兄の、妹であることをやめる」ことは、現行法の範囲では殆ど不可能である。戸籍上、親子や兄妹でなくなっても、事実上は死ぬまで、親子である事や兄妹である関係からは、逃げることは出来ない。
ロリコンは、その構図を逆手にとる。
妹が相手であれば、自分がエゴの限りを尽くして、欲望のはけ口にしても、仮に嫌われても、予め用意されている「兄と妹という関係」が、解消されるということにはならない。通常の恋愛や、恋人同士にありがちな「永遠の別れ」が起きえない、だから対象にするという、本当に卑怯者の発想がそこにはある。
加えて。「妹萌え」に言えて、もう一つの「幼馴染萌え」にも言える次の要素が「自分開示の不要さ」であろう。通常の社会での人間関係では、まず初対面があって、コミュニケーションがあって、様々な対話やシチュエーションを経て、互いの人格や性格を知りあうという流れを辿るのだが。
ロリコンオタクが求める「妹」や「幼馴染」は、そんな面倒なことをしなくても、予め自動的に、設定ゆえに自分の人となりが、対象少女のデータベースに(しかも好意的な心象と共に)インプットされているという状況願望である。
確かに。「妹萌え」「幼馴染萌え」を主張したからといって、実際に自分の妹や幼馴染の少女に、手を出すロリコンは、そうそうはいないとは言い切れる。彼らはあくまで、決して満たされることがない現実を拒絶して、妄想の世界の中だけで、生きようとしていることは確かだ。
それをして、誰にも迷惑をかけないのであれば、頭の中でどんな願望や妄想を抱いていたって自由じゃないか、はもっともな反論なのだが。
その妄想や願望が、実社会での他者とのコミュニケートや関係性構築を阻害する可能性がある以上、そして、その性愛対象が、まだ性行為にも恋愛にも見合っていない幼女である以上、ロリコンは害悪なのである。
もちろん、犯罪を起こしていない、実際の少女に手を出していないロリコンは無罪ではあるが、無罪であったとしても無害ではない。
ロリコン等の性癖は、何かのきっかけで一度目覚めてしまえば、これを投薬やカウンセリングなどで矯正することは、現代では不可能であり、一度ロリコンに目覚めてしまった男は、長い人生を、いつか少女凌辱犯罪を起こすか、それとも、その衝動を我慢し続けたまま生涯を終えるかの、二択しかないのである。
それはアメリカではミーガン法(Megan's Law)などが、実施されていることでも立証されている。
今回、記した論を総括すれば。
そもそも70年代までの「ロリコン的なる表現」は、そこに何かしらの、社会背景を投影したり、大きなテーマのカリカチュアとしての「手段としての目的」が存在していた。
やがて、それら「表現の中の少女たち」は、社会の穢れから隔離されたり、そのバイタリティで閉塞した社会を打破したりする象徴として、80年代初頭までには機能していた。
しかし、パロディ文化を基本とする「80年代らしさ」が、その構造論を空洞化させ、そこへどっと流れ込んできた商業主義が、数多のロリコンを目覚めさせ、消費させ、そして社会へ放逐した。
その結果、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件等が引き起こされてしまったが、社会的にその責任を負う当事者が該当するはずもないまま、ロリコン商業はさらにアングラ化し、漫画、写真、映像、ゲーム等で、様々なコンテンツにアングラ寄生することで潜伏存在を続け、現在に至っているということである。
クールジャパンなどと持て囃されている、日本の萌えアニメ文化などが、欧米人から見た時に、あまりにも、そこで描かれている少女達が、幼く見え過ぎるというのも、遡ってしまえば、萌え文化が、もとはといえば、ロリコン文化の、進化的偽装であるからに他ならない。
2016年現在。今もなお、幼い少女を性的に凌辱する動画のweb流通は後を絶たない。「二次元だから無罪」が、三次元での悲劇を呼び起こす触媒になる構造論は、宮崎事件の頃から変わっていない。
我が『ロリさつ』の増井公二監督が、今回の映画制作へ向かうにあたり、予め制作した短編ムービー『ロリさつAnother誰を?』で、ラスト、京乃希和さん演じるナビゲーターの少女が叫ぶ「本当は、ロリコン野郎は、殺してもいいと思う!」。
これを、僕も最終的なメッセージとして、本論の結びとしたい。
「表層的ロリコン論」【完】