今回の、一連の『「表層的ロリコン論」』の初動で「70年代における『妹』論」を展開したが、2000年代以降のオタクの「妹萌え」は、ロリコンが、なぜロリコンたりえるのか、という根幹とリンクしている。
そこには「幼馴染萌え」も含まれるのであるが、人間関係とはそもそも、恋愛も友情も仕事も、互いを認め合い、認められようと努力し、その距離感や関係性に対して、常に緊張感と敬意をもって向き合うことが不可欠である。
しかし、「それ」が、出来ない、やりたくない、やろうとしない者達がいる。
いや、むしろ「せっかく頑張って『それ』をやっても、結果がダメだったら、最初からやらなければよかった、という結論になるじゃないか」で、まるでイソップ童話(Αισώπου Μύθοι)の『酸っぱい葡萄(The Fox and the Grapes)』のように、実在する女性(この場合、ある程度の経験則と判断力を備えた、自我的に大人になった女性を指す)を嫌悪し、回避しているのが現状なのだ。

人生、どんな人間関係でも、その関係性はリアルタイムで変動する。
自分が思い上がった行動をとったり、相手の意志を踏みにじる行動をとったりすれば、容赦なくその関係は断たれるか、距離を置かれるであろう。
「その不文律」を怖がるだけで、何も努力しない者が陥るのが、現代における「ロリコン(「妹萌え」「幼馴染萌え」含む)」なのだ。

ここでは仮に、セックス(性行為)を例に出そう。
セックスは、そこには決まりも規約もなく、いうなればカップルの数だけ形があり、奥も深い愛情行為である。
しかし「そこ」から愛情が欠落して、相手を思いやる感情が失われてしまったらどうなるだろう?
いや、むしろロリコンは、その状況と関係性を求めるからロリコンになるのだ。
人と人のコミュニケーションは、全てはキャッチボールだ。自分が投げたい投げ方よりも、相手が取りやすいボールを投げることをまずは心がけ、相手が投げてきたボールを、懸命にキャッチしようという姿勢を、共に共有できてからがスタートなのだ。それは「会話」「喧嘩」「仕事」全てに通じる概念なのである。
しかし、ロリコンはそれを「ウザい」と思う。「どうにかして、めんどくさい手間だけを省いて、自分の欲求と願望だけを満たせられないか」と考えるのだ。

セックスの話に戻れば、性行為は概ね、男性が主導で状況が進行する(もちろん例外は多数あるが、ここではとりあえず、マジョリティに絞って論を進める)。そこで、どういう行為と、どのような接し方をするかで、男性自身の経験値や、過去の蓄積が、相手の女性に伝わってしまうのだ。それでも、実存する対等な女性を相手に、正常な心理で交流を求めようとする男性であるならば、馬鹿で若いうちは「これがセックスのセオリーです」というような、雑誌やネットのコラムを鵜呑みにして、経験値の浅さをカバーしようとするのであるが(そう、女性が生まれながらにして皆処女であるように、男性だって誰もが最初はビギナーであり、誰もがそれなりの経験値を積むのには、それなりの経験そのものが必須なのである)、現代の「コストを損としか捉えられない価値観脳」のロリコンは、そこで「がんばって勉強して学んでも、女性に馬鹿にされるかもしれない。恥をかかされるかもしれない」と、考えて立ち止まってしまうのだ。

それだけではない。先ほども書いたが、セックスが男性主導の行為であることが一般論として有効である以上、そこでセックスが起きる時、常に男性は、女性の過去の記憶の中にある男性経験と、比較されるというプレッシャーを持つのが当たり前なのだ。むしろ、自分が愛する女性の、記憶の中にある過去と、しっかり対峙し合えるかどうか。それは男性が、成長して、一人の女性を愛していくためには、とても大事な通過儀礼なのであるのだが。
ここでもまた、肥大化し過ぎたロリコンオタク脳は、その通過儀礼を拒否してしまうのだ。目の前の女性の「過去の男」等と比較され、ましてや負けてしまうなど、プライドだけが肥大化したロリコンオタク脳には、耐えられない屈辱なのだ!

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