――どう考えても、思春期の時間は、二十四時間では計算足りなかったですよね、その頃って。今思い返す時、ご自身で一番、何を削ってたと思われます?

平松 でも、結構寝てたんですよね、ちゃんと。あの頃の睡眠時間は、不思議ととれていました。ときどきハードになるときはあったんですけど、何となく八時間は寝るような感じだったんです。だから、残りの時間を本当に、フルパワーで全てのものに向かってたんだと思うんですよね。

――その中でも。平松さんが挑まれたのが、井上ひさしさんの作品であったり『ブラックコメディ』(1967年)だったり、アントン・チェーホフ『かもめ』(1896年)であったりって言う。

平松 ……辛かったですね(笑)

――YouTubeでおっしゃってましたね(笑)

平松 わかんないですもの。だって、たかが二十歳とか、そんなそこらの若造(若かりし頃の平松氏自身)に『かもめ』を理解しろっていうのが無理ですよ。ロシア文学なんて無理です(笑)。世界観が、現代の日本とまったく違いますからね。でも、芝居をやろうっていう人にとっては、やっぱり通らなきゃいけない通過点だったんですよね。『私道』の方でも、多分喋ってると思うんですけど、養成所では『かもめ』をやらされたんですけど、その(正式)劇団員になってからチェーホフの短編オムニバスを三本やったんですね。その三つをくっつけて、一つの公演にしようっていう企画で。一つが『結婚申込』(1888年)、もう一つが『タバコの害について』(1886年)で、あと一つが忘れちゃったんですけど、その三本立てをやったんです。そこで僕は『結婚申込』っていう、すれ違い三人芝居劇の登場人物をやっていくんですけれども、演出が、恐れ多くもあの寺島幹夫さんだったんです。寺島さんの世代は、ガチで新劇、演劇史を勉強してるから、ロシア文学の、その面白さが分かるんですよね。それで演出されているんですけれども、何が面白いんだか、演じている方が分からなくて(笑)。三本のコメディをやらされてるんですけれども、どこが面白いのかがわからないっていうのは、本当に苦しくて。寺島さんは(全部分かって演出しているから)笑ってるんですよね。でも、やってるこっちは「何笑ってんだろあの人は」って感じで「ロシア文学はわかんねーなー」とか、本当つくづく(当時は)思いましたね。『かもめ』は、コメディ喜劇と言いながら、喜劇の様を呈していないじゃないですか。でも残りの作品はガチのコメディだったんですよね。ガチのコメディなのに、笑いどころが掴めない。「ここ、ここずれてるから、ここが笑いどころだよね」って言うんだけれども、それは、まあ表面上の笑いどころってやつで、こういう笑いなんだって言われても、分からなかったんですよね。

芝居の世界との出会いの話、興味深く伺いました! そんな平松広和氏インタビュー! 次回は、若い頃に演劇で苦労した話や、今の声優界に思うことをお届けします!

SEE YOU AGAIN!「平松広和インタビュー・3『巨人の星』と『喩え話』と」

『声優・平松広和の私道 Mk-2』(Voicy)

『平松広和の私道』(YouTube)

取材協力 (株)ガジェットリンク

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