(株)ガジェットリンク代表・声優・平松広和氏をお迎えして語って頂く今回は「平松広和インタビュー・10俳協時代とガジェットリンクと」

前回は「平松広和インタビュー・9今の自分とダバと泉そうじろうと」

――この後からですっけ。ガジェットリンクを興されたというのは。当時の世代としては、要するにやっぱ平松さんって言うと、勝田久さんの教えを請うた人は、俳協(東京俳優生活協同組合)へ行く方が多かったというイメージで、平松さんはそういう意味では、まさに王道を歩まれた印象が強かったわけですが。

平松 どうなんでしょうね。あの当時の地方っていうのは情報量が圧倒的になかったので、雑誌に載っていたのが、まずは勝田久先生の通信講座だったというのはありますね。いろんなこと考えるんですよ、やっぱりね。最初は別に、真面目に声優になりたいと思っていたわけでもなかったんです。東京には行きたいなァというのがあって。東京に行った時にこう(言葉が)訛ってると、恥ずかしいなっていうのがあって、アニメ雑誌『月刊アニメージュ』を見ていたら、勝田さんの「カセットテープ通信講座」があって、これちょっとやってみるかなって、やったんです。で、東京へ出る時には、新聞広告にあった東放学園に行って、そこへ入学したら、そこが突然東京アナウンス学院になってて、(学部的に)ハードとソフトに別れちゃったんですよね。それで東京アナウンス学院を卒業する時に、無名塾仲代達矢主宰)を受けたんです。でも、そこは落ちて撃沈したんですけれども。どうしようかなぁと思っているうちに、東京アナウンス学院の時の友達と一緒に酒飲んでて「(これから)どうする?」っていう話をしてた時「明日、芝居見に行こうよ」って誘ってくれたんで、俳協の……七期生かな? ぐらいの卒業公演を見たんですよね。えらく長い芝居だったんです。休憩なしで、二時間十五分ぐらいぶっ通しでやられて。その前の日に友達と酒を飲んで、徹夜で見に行ったんですが、二時間の長尺芝居って普通、そんな状態で観ていても、眠くなって辛いじゃないですか。でも、(芝居が)面白くて寝なかったんですね。ここすごいなぁと思って、みんなお芝居上手いなぁって、ここいいかもなぁって、帰りにそこの願書をもらって、一応帰った。そこがたまたま俳協だったっていう流れなんですよ。願書を受け取るまでは俳協っていう名前も知らなかったし、何も知らずに出て来てるんですよね。

――確か本多知恵子さん(『エルガイム』ファンネリア・アム役)と、ちょうど一期違いですよね。時期の近い俳協の声優さんが、とも『エルガイム』で抜擢されたということになります。

平松 そうですね、本多さんの方が先にデビューしてるんで、はい。

――それで、俳協からガジェット起こされて、ガジェットが正式に(株)ガジェットリンクっていう形になっていく流れなんですけれども。それは単純に平松さんの中のビジョンとして、その時がベストなタイミングだと思って興されたのか。お聞きしたいんですけれども。

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