「元の状態に対し、最小限で決定打の変更を加えることにより、最大の効果を引き出す」という、合気道のような手法は、むしろ、東野氏が大藪ピカレスクロマンに対してとった「主人公の性別を逆転させる」よりも、TBS側の「全ての発端において、少女と少年の『彷徨いすぎて、追い詰められ切った先で出会い、救い合った魂』を描く」一筆の追加の方が、大成功を収めた。

結果、ドラマ版『白夜行』は最終平均視聴率12.9%を記録。原作小説の売り上げも、ドラマ化を境に100万部を一気に突破。
結論から言えば「常に“新しい実験”を前のめりに模索し続けてしまうことを、自己表現としている東野式小説の、良いところだけを抽出し、伸ばすことで、ドラマ版は小説が本来隠し持っていた“文学の核”を、最良の形で再構成してみせた」ということであろう。

筆者は、この作品はまずドラマ版から入ったのだが、第一話、子役俳優が演じる、少年少女時代の雪穂と亮司が、共に背負った運命と環境の地獄さと、そこから互いの手をつなぎ合うことで、互いの運命を背負い合い、互いが互いにとっての、太陽になり、互いの人生を常に明るい世界(白夜の世界)として照らし続けようとするまでの展開。そしてその神聖な儀式として、まだ幼い少年と少女が、償いきれない原罪を背負い合い、それでも「私の人生全ては、あなただけのために」を己の呪文として、茨の道を歩いていこうと、小学生ながらに固く誓い合った物語に、不覚にも涙してしまった。

東野氏にも、石丸氏にも森下氏にも失敬かもしれないが、あのかつてなかった心を震わせられる感覚の前では、正直第二話以降最終回直前までは、怒涛のピカレスクサスペンスロマンの醍醐味は感じるが、蛇足だったのではあるまいかと思ってしまうことも少なくない。

物語のラスト。亮司は初めて、自分が決して、自分が思うだけのような「寂しい存在」ではなかったことを、笹垣によって直視させられた。しかし、彼にはもう「雪穂のために生きた人生を、捨てた人生」を、取り戻せるだけの力は残っていなかった。だから雪穂は、そんな亮司の人生、賭けてくれた想いを、世界中でたった一人だけ胸に抱き、この世界に一人残されたまま、善良な仮面を脱げなくなった、孤独な悪人として生きていくしかなくなる。

それは、原作小説、ドラマ版、どちらにも共通する、本作品を不朽の名作に押し上げた一番の核であるが、筆者には、ドラマ版の改変の方が正しかったとさえ思える。
概念が違うと言われてしまえばそれまでだが、東野氏が拘った「東野文学は、なにがあっても絶対に、ミステリーなんだ」だとしても、ミステリーには“倒叙”という手法があったではないか。笹垣をコロンボでも古畑任三郎にでも見立てた構図にすれば、もっと分かりやすかったであろうに(これも以前『表層的東野圭吾論概略』でも書いたが、東野氏は、「作者が作品に仕掛けた謎が、結末前に読者に予測されてしまうことへの恐怖心」が人並み以上に強いのだ)と、思わざるを得ないのだ。

東野圭吾氏は、筆者が広瀬正「SF作家にしてタイムマシン搭乗者にして、天使」で引用した、広瀬正氏に対する司馬遼太郎氏の解析以上に「白い実験衣を着た進行係」なのかもしれない。
常にコンセプトありきで、実験精神と意欲に満ちていて、登場人物はそれこそ実験の駒でしかなく、その実験の成否が、自身の文学性を進めていくという意味においては、本作も『容疑者Xの献身』も、同じなのだろう。

しかし。
それでも、と思う。
雪穂と亮司の原風景に、他人事とは思えない既視感を感じた筆者などは、彼らを幸せにする分岐も与えてやってほしかったと(そう、まるで広瀬正氏の『エロス』のように)。

モラルや倫理が、人と人の愛を測る物差しではない。
どんなに薄汚れても、環境に押しつぶされたとしても、川面に浮かぶ、月光に照らされた紙の切り絵のように、人が本当に大切だと思える存在と出会えるのが、思春期以降の大人時期だとも限らず、原風景で出会えた「その人」の、手を、例え闇に落ちても握り続けることが、幸せだと感じる人生があってもいい。
その闇を、照らすためだけに、白夜の時間が続いて行ってもいい。
それがきっと、人の生業でもあろうから。

だから最後に結論を加えるのであれば。

「東野圭吾による『白夜行』は、壮大な実験作であったかもしれないが、人の『もう一つの純愛の側面』を切り取った、第一級の文学でもあった」

ここも『容疑者Xの献身』に等しいが、これがきっと、東野文学の究極系なのだろう。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事