それにしても、このマレッタは、当時を知る者なら、誰がどうみても確実に、1980年当時に日本を巻き込み大ブームを起こしたフランス映画『ラ・ブーム(La Boum)』のヒロイン・ヴィック・ベレトン役のSophie Marceauがモデルであると分かる。
表情の付け方、しぐさ、性格、そして髪型に至るまで、あぁ御厨先生、Sophie Marceauにコロッとまいっちゃったのね、だから自分の漫画もフランスが舞台だから、ちょっくら出してみようと登場させてみたら、これがまた、作者も読者もドハマリしちゃったのね、という「当時を知る者しか体感できない流れ」が、確実にあの頃あったのだ。
ちなみに、いわゆる口さがない漫画マニア・オタクの間では、『私を月まで連れてって!』同様、この漫画も「ロリコン漫画」扱いを受けたわけだが、客観的にどうこう言われること自体、大河さん個人とは関係ないのでどうでもいいっちゃぁいいのだが、この漫画のヒロイン・マレッタのモデルがSophie Marceauであると確定している状況で換算するなら、Sophie Marceau嬢は1966年生まれであり、大賀さんと全く同年齢であるので、少なくとも大河さんはロリコン扱いをされるいわれはないという話になる(『裂けた旅券』でのマレッタの登場時、13歳だったことに関しても、その頃大賀さんは14歳か15歳そこらなので、この場合の歳の差も、決してロリコンということなかれというレベルの話である)。
さて、話題を『裂けた旅券』の本題に戻すとするならば。
上でも言及したが、70年代に一世を風靡した、東西冷戦を背景にした『ゴルゴ13』と、イアン・フレミングの007シリーズ的なアンソロジー小説風味をもった漫画というのは、一つの流れとして、明確に漫画文化の中で(少しだけひっそりと)ジャンル化していた時代が確かにあった。
少女漫画なんかで例に出すなら、それこそ青池保子女史の『エロイカより愛をこめて』という、漫画史上の名作がそのジャンルの王なのであるが、少女漫画アレンジをしつつ、漫画的ファンタジー成分が多めの『エロイカ』の方が、その、時の世界背景情勢への柔軟性と、娯楽の中で「社会」を上手くテーマとディティールに落とし込む巧さは、実は『ゴルゴ13』よりも『エロイカ』の方が、巧かったのだと(多分に私見だけど)それは言い切れる。
そこからもうちょっとジャンルとして、少年漫画でダイレクトに扱うと、新谷かおる氏の『ジャップ』が、タイトルも中身も迷走しながら消え去ったりしたのだけど、実は僕の視界で語ってみると、『裂けた旅券』という、今はもう、さほど名作扱いされていないこの漫画がなければ、『MASTERキートン』なる、誰もが認める名作漫画は、プロダクツされなかったと言い切っていいと思う。
改めて考えさせられるのは、『MASTERキートン』の時代の頃にはもはや東西冷戦は終局に向かっており、実際に、連載中にベルリンの壁が崩れるなどして、むしろ作劇的には「人々の人生の傷跡から、消え去る事のない東西冷戦という“見えなかった戦争”」が主軸となっていくのに対し、『避けた旅券』が各話で魅せる、まさに冷戦真っ只中の緊張感は、「ちょっと風呂敷がデカすぎる話を、むりやり短編に詰め込んじゃったパターン」も含めて、今となっては、得難い作劇センスである。
血腥い凄惨さは、微妙な判定だが『MASTERキートン』より『裂けた旅券』の方が若干高く、だからこそ、まるでリュック・ベッソン映画のような「主人公の相棒 元娼婦のフランス少女・マレッタ」の、愛くるしさと若さ、ひたむきさと「純愛」が、物語の後味をレスキューすることになる。
それは、多分に(実際の連載時期の)「80年代的ラブコメ漫画要素」に、危うい程度には近いのだが、それらのヒロインと違ってマレッタは、せつなすぎるほどに生々しい。
その「生々しさ」が、実際の世界背景で展開する、東西冷戦を背景にした凄惨な陰謀や事件、人生の末期の「非現実さ」を、絶妙のバランスで中和している。