『チーム・バチスタの栄光(上下)』
とりあえず今回は、気になったさわりの部分に関して、点描を記すにとどめておく。
「『常識では解決できない難事件を紐解く名探偵』とは、常人や凡人では気付かないような、些細な鍵を見つけることができるだけあって、人間的には、偏執狂的だったり、空気が読めなかったり、非常識な変人が多い」は、常識人の我々一般市民が勝手に抱く、願望と偏見の入り交じった、本格推理小説の不文律セオリーなんだけど、本シリーズの白鳥圭輔というキャラは、そこをあからさまに狙いつつ、しかし狙いすぎて、しかも海堂氏の筆力が足りなかった結果、寒いレベルで外しすぎている印象が強い。
かいつまんでざっくり言ってしまうと、典型的な常識人である作者によって、机上で練り上げられた「変人」キャラクターコンセプトが、ロジック機能性としては、充分そのままの予定スペックを発揮しているのに、小説という作品世界の内側で流れる時間軸と、実際の物語展開に対して、そこでキャラを与えられたその「変人」が、ヒトという有機体としてレスポンスするべき反応を、筆者がしっかりと描けないため、そこで「魂がある生き物感」の喪失がみられるということ。
というのも(これは、この先の海堂論で何度も出てくるんだけど)海堂氏がとことん理系人間であって、文系創作脳を持っていないので、そこで「生身の人間が、今あるその状況に対してどうレスポンスするか」への、文学的・心理学的シミュレーションが、まだまだ未熟なのだ。
もっとも、そこで物語を展開させる登場人物が、医師やコ・メディカルといった、医療界内部の人間であって、医療スタッフならではの、専門的な対応や言動を見せるべきシークエンスにおいては、現役医師でもある海堂氏の描写はさすがに、他のどんな医療小説作家よりも抜きんで、興味深く説得力のあるリアリズムを発揮するのではあるのだが。
かたや一般人を描いた途端、そこでの描写からは生身の人間の息遣いが消失してしまうという傾向がみられる。
そのギャップが「海堂メディカルエンターティメント」を楽しめるかどうかの、判断基準になっていっていると思われる。
簡単に言ってしまえば「登場人物のリアリズム、生々しさ」という点では、海堂氏は、医療の世界の住人を描く時と、市井の人々を描く時との間では、描写力に天と地ほどの差があるのだ。
あまつさえ、そこで意図的に「変人」を描こうと小細工を弄すれば、おのずと出来上がってくるのは、「解体新書を見ながら作ったフランケンシュタイン」になってしまうのは自明の理か。
「普通の市民」がちゃんと描ける能力がない人が、意図的な「変人」を描こうとする無理が、この白鳥というキャラには詰まっている。
白鳥というキャラは、実際の小説版では
「成金センスの高級ブランドを下品に着こなし、他者からは、ゴキブリのような印象に見える、小太りのさえない厚生省の中年役人。しかしひとたび口を開けば、超高等ロジックテクニックと、子どもじみた感情的な物言いで周囲を振り回し、気がつけば、その超絶論理的なコミュニケーション能力と洞察力で、常に困難や謎が打ち砕かれている」
このように設定され、描写されている。
こう書くと「このまま映像化しても案外面白くなるんじゃない?」と、素人さんは思ってしまいがちになるのかもしれないが、実際の「生身の俳優が演じる映像化」では、映画版(演ずるは阿部寛)も、ドラマ版(演ずるは仲村トオル)も「厚生省の切れ者で二枚目。シャープなキャラで、言うべきこと、言いたいことを、場の空気を読まずにズバズバ言ってしまう、論理的で押しの強い濃いキャラ」というニュアンスで統一されることになった。
どうしてそこで「スタッフも組織も違う二種類の映像化において、白鳥キャラの変更の方向性が一致したのか」については、また、改めて『チーム・バチスタの栄光』論で延べようと思っている。
本作を起点とした、海堂尊氏の田口&白鳥シリーズ(桜宮サーガ)に関しては、改めてこのシミルボンで、深く掘り下げていきたいと思う。
(以下『チーム・バチスタの栄光』書評に関しては、『なぜ『チーム・バチスタの栄光』は推理小説だったのか』で)