同じことは、実相寺昭雄監督にとっての、メトロン星人にも言えただろう。

『ウルトラセブン』と『ウルトラマンマックス』(2005年)の世界観が、40年のウルトラシリーズの中で、整合性があるかどうかは、実はあまり関係がない。

市川森一氏&上原正三氏が『ウルトラマンA』(1972年)で登場させた、メトロン星人Jrとの関連性なんかも、実はどうでもいい問題なのだ。

実相寺監督にとってメトロン星人とは、人間同士が繋がりあう社会という枠組みにとって、何が大事で何が必要なのかを、寓話の形で描き出すためのトリックスターだったのだ。

昨今のアニメ(特撮も含めて)は、まず詳細な世界観設定や、矛盾のない整合性を確保してから、全体構成や各話が作られる順番を踏むわけだが、確かにそれらが違和感を覚えるほどに野放図な作品はどうかと思うが、それらに縛られすぎて、ドラマとしての自由度を萎ませるのも、また本末転倒であろうと、筆者は思ったりもするのである。

ウルトラに関して言えば、例えば昭和の全シリーズを、時系列的に放映と同時進行した、全てが一つの流れであると解釈してしまうと、防衛組織の変節や世界観など、矛盾や無理が随所に見えてしまうのは周知の事実。

しかし、それでドラマや物語の質が、壊れてしまうわけではない。

飯島監督によって、半世紀近くの間描かれてきた「バルタン星人」という存在は、それが設定的な整合性は、確かに矛盾にまみれているかもしれないが、「人類が向き合うべき存在」としては、40年間変わってはいない。

その変化は、人類の問題意識の変化からきているものであり、少なくとも、飯島監督の世代の方々はそうやってドラマを成立させてきたのである。

本話で飯島監督が託したメッセージの本質が、おおとりロケット成功に関して岩本博士が述べた「もう少し、時間がほしかった」に集約されていることは明白だろう。

当時、急ぎすぎていた宇宙開発、兵器開発や、物凄いスピードで加速しつつあった、高度経済成長がもたらした科学文明進歩に対して、あまりにも焦りすぎではないのかという、飯島監督による警鐘のようなものを、そこに感じ取ることが出来る。

イケイケで上手く言っている間は、社会は自己検証能力を失い(見かけだけの)成功の連続がもたらす興奮は、集団アドレナリン増幅状態を呼び、さらに冷静さを失わせて、そこで足元を確認する基本精神を見失わせて、結果、冷静であれば誰しもが気づけたはずの危機管理を、放置させた結末を招いてしまう。

それは、狂騒状態になった人々が、いつも歴史で繰り返してしまう悲喜劇の顛末そのもので、他人事ではなく、まさに我々の国・日本もまた、狂気じみた戦争へ向かおうとした時代や、バブル経済末期などにおいて、岩本博士のように、立ち止まって検証をと提唱する人の声が、狂騒状態の喧騒にかき消されてしまった結果、悲劇を防ぎきれなかった現実があった。

その上で、さらに人間が果たすべきが「しっかりと、自分たちを信じること」だということが、本話のスペクタクル展開直前において、岩本博士とムラマツキャップが、ビートルの宇宙用エンジンに関して交わす、やり取りの中にしっかり描かれていて、その「信頼」こそが科学と結びつくことで初めて人間は未来を掴めるのだと、飯島監督はセブンの『勇気ある戦い』と共に、そのことを訴えている。

これは「科学」「文明」を、他者の心や絆に変えることで、全ての「社会のあり方」として、受け止めることが可能なメッセージなのである。

(この、飯島監督のメッセージに関しては、性善説すぎるという指摘もあろうが、だからこそ、そこで『ウルトラセブン』で飯島監督とコラボレートした、佐々木守氏によるニヒリズムのリアリティが光るのだが、それはまた『勇気ある戦い』の時に、詳しく考察してみたいと思う)

現実社会は結果として、アメリカのアポロ計画の事実上の頓挫を受ける形で、長い暗黒の時代を、やがて迎えることになるのだが、『ウルトラマン』の時代は、宇宙開発・開拓のスピードが、現代の我々の体感速度を遥かに上回っていた時代でもあり、そこでまさに「宇宙時代の宇宙の英雄」を描いた『ウルトラマン』が、そこへただただ、賞賛と賛美だけに包まれていたわけではないことが、本話や『故郷は地球』などに顕著に現れているのは、当時という時代背景を考慮すると、非常に興味深いと思うのである。

1969年7月、アメリカのアポロ計画の絶頂期。

アポロ11号が月面着陸を果たしたとき、筆者は3歳になろうとしていたところだった。

人はそうそう、3歳の頃の記憶など、およそ正確には持ち合わせてはいないのであるが、筆者は当時、世田谷等々力の自宅の庭から夜空を見上げ、まさにその、アポロ11号が月面「静かの海」に着陸した瞬間、夜空の月を見上げていた記憶がある。

その頃、ウルトラシリーズはちょうど谷間の時期にあったが、むしろ東京では、毎日テレビの再放映でウルトラはリアルタイムで流されており、筆者はその時、見上げる夜空に輝く月に、想像と現実が交錯した夢を見つめていた。

良質のファンタジーはいつもそうであるが、夢と現実はワンセット。

初期のウルトラシリーズが訴えかけていた「現実」はいつだって、そこで描かれていた非現実的な空想世界と、観ている子どもを繋ぐためのパイプであった。

飯島監督のその精神は、30年以上も時を経たコスモスやマックスでも変わらなかった。

実相寺昭雄、上原正三、藤川桂介、佐々木守、市川森一、山際永三らドラマ映像作家達は、ウルトラから去った後も、それぞれに素晴らしい仕事を産み落とし続けたが、そこで発信された映画・ドラマの中に「かつてのウルトラと地続きの核」を見つけるたびに思うのは、ウルトラは彼等にとって一つの仕事に過ぎなかったと同時に、彼等にとってはしっかり、はっきりと、自身を込めた、胸を張れる仕事であったのだと、実感できる嬉しさであった。

だからウルトラマンの魅力は、半世紀以上経っても色あせないのである。

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