そもそもとして、筆者(市川大賀)は元は映像畑にいた人間であり、映像作品という物は、決して個人の創作物ではなく、多種多様なセクトと技術班が共同作業で作り上げていく、総合表現であることは理解している。なので過去にもシミルボン以外でも、『ウルトラマン』シリーズや、NHK朝の連続テレビ小説等の評論で、「映像作品を、脚本家の文芸面だけで語ることの、無意味さと迂闊さと危険性」は説いてきたつもりである(それを踏まえた上での「脚本家の作家論」は、何度も書いてきた)。
映像作品において脚本は設計図に過ぎず、現場でそれがコロコロ変わることは日常茶飯事であり、しかもその変更が、最小の規模で、最終的な作品の表現テーマに対して、最大の改変を及ぼしたケースも少なくない。だからこそ、映像作品を脚本家の個人作品として読み解くことは愚かだと説いてきた。
一方で「映画とテレビの制作システムの違い」というのも、一般のエンドユーザーが、テレビドラマを脚本家の個人作品と誤解してしまう根源にあると理解はしている。
映画は2時間の尺を、半年から一年等の時間をかけて作るコンテンツである(例外はある)。それゆえ、脚本は初期に書かれたものが、じっくり時間をかけて検討され、本当の意味でのたたき台にしかならず、ストーリーボードや絵コンテの段階で、そこへ監督の表現が練りこめられる時間的余裕を持ち、なおかつ現場でも様々な改変がなされる。
近年の日本映画で言えば、『進撃の巨人』(2015年)の実写映画で、突然監督による判断で、現場で脚本にはなかったラブシーンが挿入され、その結果の酷評が、脚本を担当した町山智浩氏に寄せられ、脚本に書いてもいないことで責められた町山氏が困惑したことでも印象深い。
しかし、同じ映像作品でも、テレビの場合はそのタイムスケジュールの概念が違う。
同じ2時間の尺でも、サスペンスドラマ等は実質1か月で作られ、撮影日数は2週間程度が相場である(これは、四半世紀前に散々助監督で現場を体験してきたので間違いない)。そうなると、監督という表現者が、独自の表現や個性を、完成作品に持ち込むために練りこむ余裕が殆どなくなってしまう。
いずれ富野監督の著書『映像の原則』をテクストにした富野論でも書くが、テレビの実写ドラマの監督に求められる能力は、才能や個性は二の次で「とにかく早く、しかも映像理論的に“正しく”、脚本を“正確に”映像作品に置換できる能力」なのだ。
視聴者的にはあまりギャップを感じないこの「映画とテレビの差」は、実は送り手側に立つと劇的な違いをもたらす。
連続ドラマでもそうだが、テレビはとにかく時間がないので、クランクインする前の脚本段階で、まずは「隙のない完成状態」が求められるのだ。テレビ出身の脚本家の中には、倉本聰氏や山田太一氏など、「自分が書いた脚本の台詞を、完成品では一文字も変えられたくない」性の作家もいらっしゃるが、そういった風潮はテレビのドラマ制作システムが生み出した流れであり、いわば映画の脚本は「完成品の礎になるたたき台」で、テレビの脚本は「全スタッフが従わなくてはならない神聖なる設計図」なのである。
筆者が若い頃、映像の現場で教え込まれたセオリーに「映画は監督の物。テレビは脚本家の物。舞台は役者の物」というのがあったのだが、それは以上の裏付けがあって伝わった教えなのだ。
だから、テレビドラマの世界では、監督よりも脚本家がクローズアップされ、しばしば誤解と無知を招きながら、完成品のドラマ作品が、脚本家個人の単独創作のように論じられてしまうのだ。