その上原氏の「すぐ隣にいるごく普通の人間が、実は異人であるかもしれない」は、例えば『宇宙刑事ギャバン』(1982年)から始まった宇宙刑事シリーズなどでも、港の労務者や通行人などが、突然戦闘員の正体を現して、主人公に対して襲い掛かってくる描写などに受け継がれている。

それはもちろん、子ども番組的な解釈としては「一番怪しくない存在が、実は怪しかった」という、ドラマ的サプライズを生む要素ではあるが、裏を返せばそれは「今我々が安心して生活している日常の景色の中に、既に異民族はまぎれていて、一緒に生活を送っているのだ」という真理に他ならないのではないだろうか。

そこには常に、自身が異民族であるという自覚を持ち続ける、そしてその自覚は決して周囲には気づかせないという、上原氏自身の、沖縄人としてのメンタリズムが根底にあるというのは、これはもう想像に難くないのだ。

ヤマトンチュ(大和人=日本人)しかいない社会・環境の中に、ウチナンチュ(琉球人=沖縄人)の自分がポツリと存在する。

この途方もない孤独をもたらす環境を、例えば金城氏は、そのままに孤独と受け止めて、同じ境遇にいるべき怪獣と、そこに登場する個人との間に、閉じた関係を築き上げてそこに逃げ込む作劇を選んだことは、本ブログ『謎の恐竜基地』で述べた論旨であるが、上原氏はむしろ逆に、自分のような存在が常に隣にいるのだという現実を、ヤマトンチュの側に突きつける作劇を選んだのである。

それは、沖縄出身作家としての、本土人へ向けての、作品を使ったテロだったのかもしれない。

金城氏は沖縄出身の女性と結婚し子どもをもうけて、やがて沖縄の地へ戻っていって死んだ運命を辿ったが、上原氏は逆に、金城氏その他からの「沖縄の女と結婚しろ」という勧めを断ち切って、円谷プロで事務をしていた本土女性と結婚して、本土で生きていく道を選んだのである。

事実、とあるインタビューで上原氏は、自身が本土の人間と結婚したことについて、自分の中に流れる沖縄の血を、本土の血と混ぜてしまうことが、自分に出来るテロなのだという主旨の発言をしたことがあるが、その発言から思うとき、テロとはいつの世、どの状況でも、勢力的には圧倒的に追い詰められているマイノリティの側が、一発逆転を狙って起こす行動であるという認識は、上原氏が死ぬまで抱えていくだろう「異邦人自覚」の強さを表しているのだろう。

「皆気づかないが、社会が安穏としているうちに、その中には既にひっそりと異邦人が紛れ込んでいて、それを知らないがゆえに、社会は表層的平和を保っているのだ」

この構図は、実は上原氏にとっては上京してきてから生まれたものではない。

実は、上原氏は沖縄に生れ落ちた瞬間から、周囲の社会に紛れ込んだ異邦人であったのである。それがなぜか。どういう意味なのかは、「山際永三インタビュー 第二夜「山際永三と『コメットさん』と上原正三と」」での、山際永三監督の談話をお読み頂ければお判りになってもらえると思う。

沖縄に生まれ育った上原氏が、生まれながらにしてその沖縄の島においても「周囲には気づかれない異邦人」であったことの意味がお解かり頂けると思う。

そういった前提を元にして対比をしていくと、金城氏にとっての「沖縄人としての自分」は、より怪獣的であったのに対して、上原氏にとっての「沖縄人としての自分」は、宇宙人的であったことが解る。

上原氏が描いた宇宙刑事シリーズ第2作『宇宙刑事シャリバン』(1983年)では、主人公・シャリバンの故郷でも在る奥伊賀島出身の青年が、東京の雑踏の真ん中ででひっそりと、宇宙犯罪組織マドーに暗殺されるシーンが描かれて、そのシーンを冒頭として、シナリオでは「奇星伝」と記された、物語の中軸となる物語が描かれ始めていく。

そのシリーズの中では、奥伊賀島出身の者は皆、かつてマドーに滅ぼされたイガ星の末裔であり、その因縁が遠く離れた地球の現代にも続いているという構図が描かれるが、その発端で起きた奥伊賀島出身者暗殺事件もまた、何も知らない地球人達の社会に紛れ込んで生きていた異邦人が、社会の裏側に潜む犯罪組織に暗殺されるという図式だったのである。

宇宙刑事シリーズの先祖に当たる仮面ライダーシリーズでも、敵組織が歴代現れて、ヒーローと戦ってきた。

『仮面ライダー』(1971年)のショッカーからはじまって、様々な組織が地球の平和を狙い、それを仮面ライダーは阻止してきた。その悪の組織の行う計画のほとんどは、現代で言うテロ行為であり、「貯水池に毒薬を流す」「世界的な発明を奪う」「東京に爆弾を落とす」それらは毎回、社会に対する明らかな敵対テロ行為として描かれ続けた。

しかしその系譜を受け継ぐ宇宙刑事シリーズで暗躍する、宇宙犯罪組織のマクー、マドー、フーマなどは、それら仮面ライダー的悪組織とは、違った作戦を毎回展開していた。

「アイドルが歌う流行歌に洗脳電波を仕込んで視聴者を洗脳する」「洗脳薬を仕込んだジャンクフードを大々的に発売する」「必ず受験に合格するという触れ込みの塾を経営して子どもをさらう」などである。

言ってしまえば、ショッカーなどの作戦が軍事組織のテロ行為だったのに対し、宇宙刑事の敵組織の作戦は、電通博報堂といった巨大広告代理店が行う、市民の生活の価値観の中を侵略するテロ行為だったのである。

どちらが真の意味で恐ろしいテロリズムであるかはもう明白だろう。

その、宇宙犯罪組織の行うテロの恐ろしさの真意とは、「いつの間にか日々の生活の隙間に潜り込んでくる」であり、それは常に我々が、テロと隣りあわせで生きているという現実からくるのだ。

本話『アンドロイド0指令』で描かれたチブル星人の作戦も、子どもが日常的に保有する玩具という「不思議でも何でもない存在」が、とある時間をきっかけにして兵器に変わり、それを手にした子ども達も、侵略者の尖兵として社会を襲うという、宇宙刑事シリーズの侵略テロ図式の元祖ともいえる作戦であった。

ここでカリカチュアライズされているのはもちろん、広告代理店ではなく、玩具会社そのものの存在であるわけであり、それゆえ上原氏はこの脚本を書いたために、セブンのメインスポンサーである玩具会社の逆鱗に触れてしまったという事実もある。

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