ウルトラに例えればもっとわかりやすいだろうか。
ウルトラでは巨大な怪獣と宇宙人が存在しているが、実際はそんな者はいるわけがない。
撮影も、本編と特撮では全てが別れて行われている。
実際のロケで、登場人物が空を見上げて「うわぁ!怪獣だ!」と叫んでも、その見上げる先には巨大な生き物なんているわけがないのである。
しかし、その「驚いた顔」のフィルムと、特撮で撮影した「暴れる怪獣」のフィルムを、編集で繋ぎ合わせることで、ひとつの流れが発生して、その「驚いた顔」の「驚いた理由」が「暴れる怪獣を見つけた驚き」になるのである。
いずれ山際監督のその手腕については、別エピソード評論で解説するが、山際監督のモンタージュコンティニュティの切れの良さが、特撮カットと本編映像の併せ技の相乗効果を機能させているのに対して、飯島監督のカッティングセンスは、切り替えしの巧みさとテンポの操り方に作用している。
また、映像を製作するときに大事な要素が「画面設計」であろう。
これに関しては、ウルトラでは有名な「実相寺昭雄アングル」がすぐ挙げられるが(実相寺アングルが、実は基本を忠実に守った正攻法だったという話は別の機会)、一つのシーンをコンテで割って撮影をするに当たって、画面内での人間の配置や動き(動線)をどうコントロールするか、ここにもやはり、演出家の個性とセンスが問われるのである。
ウルトラシリーズの演出家一つとっても、山際監督の「一つの画面に複数の人間関係を混在させ、動線を交錯させる」技法や、真船禎監督の「照明効果とレンズ効果による、映像構成要素の取捨選択」という手法、富田義治監督による「抑えた照明で、視聴者の視線を誘導して集中させる」効果の多用や、安藤達己監督の「パンニング効果を視聴者の視線誘導だけでなく、登場人物の心理描写とリンクさせることで、登場人物と視聴者の感情を同化させる」などなどに至るまで、それぞれの演出家ごとに個性や特性、癖や長所があって、それがシリーズの魅力を多様化させていると言えるのである。
では本話を演出した飯島監督の場合はどうであったか?
飯島監督の場合は、実は照明設計と画面構築に関してはオーソドックスな印象が深い。
むしろ飯島監督のセンスと個性は、カッティングのモンタージュ構築と、特撮合成カットへの、理解と傾倒に現れていると言っても過言ではない。
それを思う存分に堪能できるのが、本話『無限へのパスポート』なのである。
読者諸兄は感じたことがないだろうか?
映像作品のカット割に内在している主観視線の存在そのものが、それがドラマであってもドキュメンタリーであっても、決してそれは現実の記録などではなく、それが意図して紡がれた作品であり、非現実を綴ったアルバムであるということを。
飯島監督のシャープなカッティングセンスは、フランク・キャプラ監督作品から学んだと思われる、ハリウッドのアメリカンコメディなどから得られた物だが、本話の演出においては特に、そこでの繋ぎ方、繋いだ先のカットのありえなさなどが、そもそも非現実である「編集されたドラマ世界」をして、異次元の描写へ昇華させたのだ。
そこで巻き起こされるドタバタのスラップスティックコメディ描写の連続カットは、しかしバスター・キートンのそれとは違い、我々が住む現実社会とは隔絶された世界を生み出し描く方向で、めくるめく展開を伴って編集されるのである。
それは確かに、東宝系のシークエンスコメディ的手法ではある。
その代表作『ニッポン無責任時代』(1962年)のように、ワンシークエンス、ワンシチュエーションを基調にした単発ギャグを重ね、それらのオチが、次の展開に繋がらないような計算が周到に行われた形で、そのオチすらも理不尽な形を持って用意されている。
植木等映画の初期は、その単発ギャグが植木演ずるキャラ描写に直結することで、その積み重ねが映画としてのルックスを完成させるプロセスを辿り、あの大島渚氏をして「邦画にはありえなかったハードボイルドだ」と言わせしめた。
一方本話が、そのシチュエーションの積み重ねで表現しようと向かったのは、怪獣ブルトンが生み出す、異次元の理不尽さだった。
第二期ウルトラにおいて、市川森一・山際監督のコンビが、絵や写真(二次元)と現実空間(三次元)を結ぶ力の象徴として異次元を描いたのに対し、飯島監督は、スラップスティックの不条理ギャグの積層で異次元を描き出した。
例を挙げるなら、科特隊本部という本話の限定舞台は、『来たのは誰だ』『地上破壊工作』などでもわかるように、そもそもがモンタージュ効果で、その内部の広さや施設ディティールが描かれていた。
(そもそも科特隊として用意されていたセットは作戦室しか存在しない)
『地上破壊工作』で描かれた設備室も、『故郷は地球』で描かれたビートル格納庫も、それらは科特隊とは関係ないロケセットで写されたシーン描写だが、前後のシーンとのつながりで、あたかも科特隊基地内部の施設のように見える。
しかし、それらの全貌や整合性、科特隊基地施設の構成自体は、視聴者にわかるはずもなく、だからそこで例えば「ドアを開けたら、そこにあるはずのない光景があった」にしても、そもそも、その「ドアの向こう側」に何があるかを知らない視聴者にしてみれば、逆に何がそこに在っても、不条理に感じるための事前知識を持たない。
しかし、本話を観た視聴者が、本話においてはブルトンにより、科特隊基地全体が異次元によって捻じ曲げられてしまったと解することが出来たのは、ひとえに、飯島監督によるコンティニュティストラクチュアの賜物なのである。
イデが懸命に階段を昇って行った先が、天空だったというオチには合成をたくみに使い、作戦室の異変には、カメラを逆さにするという古典的な手法を用いる。
ジャンプしたイデが暗闇に陥るというギャグでは、バケツを被ってるという描写が使われ、およそ次の展開、次のギャグのオチが、映像というマジックのあまたの手法の中から、どれが選ばれてどう描写されるのかすらも予測させずに、そこからなんとか抜け出そうとする登場人物の努力を、全て破棄させてしまう力技で、「怪獣」の脅威を描き出してしまった飯島監督の映像スキルには、もはや脱帽するしかない。
映像は、決して心理ドラマを描くためだけの表現ではなく、時には人間すらも描かずに、状況を描写するだけで、テーマやその状況の意味性を描くことが出来る。