「『傷だらけの天使』からすべてが始まっている。
番組に満ちた不良性と純粋さ、センチメンタリズムは永遠である。
センチメンタリズムは市川さんの独壇場だった。 柏原寛司」

2016年に公開された劇場用映画『キリマンジャロは遠く』で、筆者はお手伝いをさせて頂いたが、その映画の監督が、『傷だらけの天使』(1974年)で本格デビューを果たし、その後『俺たちの勲章』(1975年)『大都会 PARTII』(1977年)『探偵物語』(1979年)『西部警察』(1979年)『警視-K』(1980年)『あぶない刑事』(1986年)『ルパン三世 TVスペシャル』(1979年~)等で日本随一の刑事・犯罪・アクションドラマの脚本家である、柏原寛司氏であった。

今回ドラマ版『傷だらけの天使』を紹介するにあたってテクストにする書籍は、1983年に大和書房から発行された、『傷だらけの天使』市川森一脚本集である。
タイトルどおり、市川森一氏の『傷だらけの天使』の担当脚本が、8本全て収められている。
巻末のあとがきで、市川氏は他の脚本家執筆陣にも触れて

「『傷だらけの天使』の全放映作品中、私の脚本は、八本に過ぎない。あとの十八本を書いた諸兄を紹介すると、柴英三郎、鎌田敏夫、永原秀一、宮内婦貴子、柏原寛司、田上雄、篠崎好、渡辺由自、高畠久、峯尾基三、山本邦彦、大野武夫(原文ママ)の各氏である。諸兄の十八本は、いずれも各々の個性を発揮した傑作揃いである。多くの『傷だらけの天使』ファンのためにも、これらの作品が、シナリオ集として世に出ることを切望してやまない」

『傷だらけの天使』市川森一脚本集

と、述べてもいる。

今回は、このシナリオ集を紹介するにあたって、1974年当時、新進気鋭の脚本家同士で、『傷だらけの天使』脚本を市川氏と共に執筆しておられた柏原氏に、この書評の前書きともいえる一言を書き添えていただいた。
端的にして明快。たった三行で、『傷だらけの天使』という番組の本質から、市川森一氏の作家性のベースまでをも的確に指摘している。当時を同じハコの中で過ごした同志でしか書けない、凄みのある三行だと思われる。
冒頭文の中で、柏原氏が言及したセンチメンタリズムは、市川氏の『傷だらけの天使』随所に見える、ハリウッド・ニューシネマや、Jean GabinPepe le mokoを演じた『望郷』(原題: Pépé le Moko 1937年)の影響にも見られている。

『傷だらけの天使』企画経緯

代替テキスト

このドラマ『傷だらけの天使』は、1974年10月から放映が始まったが、その頃ちょうど、『太陽にほえろ!』(1972年~)で、マカロニ刑事を熱演していた萩原健一(以下・ショーケン)が、1973年7月の第53話『13日金曜日マカロニ死す』で殉職引退した直後から徐々に与太話が企画化していった流れを持っており、同じように、ショーケンのマカロニ刑事の後釜で七曲署に配属された、ジーパン刑事こと松田優作氏も、1974年8月の第111話『ジーパン・シンコその愛と死』で、『太陽にほえろ!』を殉職退場しており、その後1975年4月から、『俺たちの勲章』で、中村雅俊氏とバディ刑事ドラマで主演を張ったという経緯がある。

それもそのはず『傷だらけの天使』と『俺たちの勲章』は、『太陽にほえろ!』を殉職卒業したショーケンと優作へ向けてそれぞれ、その『太陽にほえろ!』でローテーションに入っていた市川森一氏と鎌田敏夫氏がメイン脚本で、東宝が用意してあげた「ピン(主役)を飾らせてやるためのドラマ」だったからだ。

つまり、『傷だらけの天使』はショーケン演じるマカロニ刑事が殉職した後に、『俺たちの勲章』は、マカロニの死後に新入したジーパン刑事が殉職した後に、それぞれ企画されて、製作された経緯があるのだった。
ショーケンと優作は常に(主に優作が)互いをライバル視しあっていたが、その「様々な差」と「共有されている時代感覚」は、鎌田&優作の『俺たちの勲章』と、市川&ショーケンの『傷だらけの天使』を比較していくと、はっきり見えてくる部分も少なくない。
簡単な結論を言ってしまえば、『俺たちの勲章』はあくまで「刑事ドラマの新機軸」の枠の中で存在感を発揮することになったのだが、『傷だらけの天使』は、もはやその枠すら跳び越して「誰も見たこともないドラマ」を、ゼロから作り上げてしまっているのである(もっとも、柏原氏の証言によると、当初は『俺たちの勲章』企画段階でも市川森一氏は呼ばれていたが、既に市川氏にはNHKからオファーのお誘いが来ていたので、此方の方は企画段階から去ったとも言われている)。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事