前回は「安藤達己インタビュー 第四夜「安藤達己と『ファイヤーマン』と円谷粲と」」
――前回は、安藤達己監督が『ウルトラセブン』(1967年)で助監督としてついた監督の方々に関して、かなり辛らつな意見も聞かせていただきました(笑) その評価については、内側から円谷プロを見ていた視点ならではのものですし、自分自身も個人的に、頷ける部分がとても多かったです。けれども、明らかに映像理論などからみると問題外の他監督の作品も、ファンの間では「伝説の名作」化してしまってますね。それは多分、自分が個人的に思うには、監督の力量や演出力とは関係なく、脚本を担当した金城哲夫氏の力量で、今も語り継がれる名作になったと思うのですが。
安藤 そのとおり。金城哲夫が一番のってた時期でもあるからね。それが一気に崩れていくんだけどさ。
――それに関しては、安藤監督がブログでも書かれてた、『怪奇大作戦』(1968年)の第一話問題というのが、凄く大きかったんじゃないかと思うんです。それまでの円谷作品は必ず、金城哲夫・円谷一というコンビで第1話が作られて、そのコンビが路線を決めて、他の作家や演出家が自分なりの味付けを考えるという、そういうフォーマットが出来上がっていたわけですが、それが『怪奇大作戦』では崩れます。それは多分橋本洋二(TBSプロデューサー)氏が金城氏を、もう少し鍛えたかったのではないかと思ってるのですが。
安藤 そうね『怪奇大作戦』で言えば、橋本・実相寺昭雄・佐々木守路線なんだよね。佐々木守は元々、創造社で大島渚とやってたからね。僕は『怪奇大作戦』っていうのは、三つの路線があったと思っている。例えば実相寺ってのは、あの人は評価は高いけど、ありそうな話、僕は『リアリティ路線』って呼んでたんだけど、そればっか撮ってるのね。だけど『怪奇大作戦』ってのは本来は、僕が一回だけ(助監督を)やった、円谷一さんの最後のメガホンになった『吸血地獄』(脚本・金城哲夫)、それを僕は『おどろおどろ路線』って呼んでたんだけど、ああいう路線がもっとあっても良かったと思ってるよ。
――橋本プランニングの『怪奇大作戦』は、あくまで怪奇な事件が起きるだけの、いわば『七人の刑事』(1961年)SF路線だったわけですよね。でも、円谷一監督、市川森一氏、そして安藤監督の三人だけは、ファンタジーとしての怪奇を描きたかったんじゃないかなと、自分は思うわけです。
安藤 そう。だから僕はむしろ橋本洋二も、『怪奇大作戦』の中の路線を、『リアリティ路線』とか『おどろどおどろ路線』そして『江戸川乱歩路線』、そういうのをちゃんと混在させるべきだったと思うんだよね。そうやるべきだったと、僕は今でも思ってる。それで、円谷プロがその後、僕なんかが辞めていくんだけど、その後、縁戚関係のどろどろした中でね、そういう状態でしか仕事できない状況になって。それで上正(上原正三氏)も離れていったりするわけなんだけど、そうやって皆離れて行っちゃうわけね、能力のある奴から順番に。