本話は『侵略者を撃て』『ミロガンダの秘密』と並んで、『ウルトラマン』(1966年)クランクインの、最初に撮影された3本のうちの1本。

その3本の演出を任されたのは、飯島敏宏監督。

TBS演出部のエースであった飯島監督は、テレビ界にかつて存在しなかった「身長40mmの宇宙人ヒーロー」である『ウルトラマン』という番組の、全ての基礎になる最初の演出を任されたのだ。

飯島監督は、そこで実力派の才能を如何なく発揮し、その後40年続いていく日本テレビ史に残るドラマのフォーマットと演出の基本を作った。

飯島監督は慶應義塾大学を1957年に卒業後、現在のTBSであるラジオ東京に入社。同社の演出部に配属され、やがて映画部に異動。

後の山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズへと繋がる、渥美清『泣いてたまるか』(1962年)の演出も勤めている。

ちなみにこの『泣いてたまるか』であるが、今となっては考えられないほどの、豪華なスタッフによって制作されている。

演出は、飯島監督の他には、飯島監督と共に演出部の実力派であり、『ウルトラQ』(1966年)では『鳥を見た』『カネゴンの繭』『育てよカメ』などの、良質ジュブナイルを演出した「フィルム食いのハルゴン」こと中川晴之助監督や、映像派の鬼才・山際永三監督。その他にも渡邊祐介氏や真船禎氏。映画畑の佐藤純彌氏や深作欣二氏に至るまで、そうそうたる面々が演出を支えていた。

脚本陣も多彩な顔ぶれ。

筆頭はもちろん山田洋次氏なのだが、その他にも松竹野村芳太郎氏や、『渡る世間は鬼ばかり』橋田寿賀子氏や、シャープ&ハードな作風の早坂暁氏から、東宝喜劇路線の王者・笠原良三氏や、果ては橋本忍氏までもが参加。

東宝特撮シリーズの関沢新一氏や邦画界の至宝・木下恵介氏もいれば、日本ドラマ界史に名を残す山田太一氏まで。そんな豪華スタッフによるドラマでも、飯島監督は先頭に立って、メガホンを振り続けた。

そんな中、1966年に円谷プロ出向を命じられた飯島監督は、TBSが満を持して制作に乗り出した大型特撮SFドラマ『ウルトラQ』の演出ローテーションに入ることになる。

『ウルトラQ』は、映画界の神様・円谷英二監督が興した新進気鋭独立プロ・円谷プロが、最新鋭映像合成機・オプチカルプリンターを取り入れた製作体制で挑む、鳴り物入りのドラマ企画であったので、TBSは演出部から、飯島監督・先述の中川監督の他、両社の架け橋ともいうべき円谷英二氏の息子・円谷一氏や、実相寺昭雄監督(結局未演出で終わる)などを送り込んで、万全の布陣を敷いた。

飯島監督は、ただの出向の雇われ演出家に留まろうとせず、積極的に企画やアイディア会議に向き合い、企画文芸部の長だった、金城哲夫氏と上手くタッグを組みながら、千束北男名義(これは飯島監督が新婚当時、大田区北千束に居を構えたので、それをもじって北千束の夫という意味で「千束北夫」と命名したそうなのだが、脚本の印刷ミスによって「北男」になってしまったという所以がある)で、他演出家の脚本にも積極的に参加。

結果、『ウルトラQ』全28話では、放映第1話になる『ゴメスを倒せ!』や、『燃えろ!栄光』の脚本を執筆し、『SOS富士山』『地底調特急西へ』『虹の卵』『2020年の挑戦』などの脚本・演出を担当した。

また、『ウルトラQ』という作品は、次回作『ウルトラマン』のレギュラーへの、キャメラテストを兼ねていた部分もあり、アラシ隊員役の石井伊吉氏以外の、科特隊のレギュラー面々は、なにかしらの役柄で『ウルトラQ』に出演している。

その中でも、科特隊レギュラーの要になる、ムラマツ隊長役の小林昭二氏に関して、『2020年の挑戦』で見事に魅力を引き出し、『ウルトラマン』のドラマパートの引き締めに役立っていたのもまた飯島監督なのである。

飯島監督の作風は、シャープさが特色で、カッティングセンスに定評があり、後の『ウルトラセブン』(1967年)の『セブン暗殺計画』で顕著であったように、モンタージュ効果をうまく使うことでシーンを繋げていくハリウッドスタイルである。

その反面、明るくライトなドラマ展開とは違って、演技指導は相手が子役であろうとも、かなりそれは厳しいものであったと伝え聞く。

その結果、中川監督とは別の意味で、子ども達の群像を生き生きと描いた傑作『虹の卵』などが生まれたりもしている。

本話でも、科特隊のマスコットである、ホシノ少年(津沢彰秀)を主軸に、物語を展開させることで、ゴジラのスーツアクター・中島春雄氏が、ダイナミックに演じた本格派怪獣・ネロンガの恐怖を、上手く緩和させる演出を展開した。

ハリウッドスタイルの演出というと、乾いたドライな手法を想起してしまいがちであるが、スピーディなカッティングや、アップテンポなコメディ要素が、叙情的な情感シーンに向けて集約されていくスタイルや、カット同士のモンタージュ効果で、シーン全体を表現していく演出は、『或る夜の出来事』(1934年)や『素晴らしき哉、人生!』(1946年)の、フランク・キャプラ監督の手法や、往年のハリウッド天才コメディアン、ダニー・ケイ『虹を掴む男』(1947年)などの作風に近い。

また(特に千束北男名義で自身が脚本も手がけた場合)、それが子ども向けのファンタジーであっても、決して理想主義的な夢物語に終始せず、現実の社会が抱えている問題定義や、社会現状認知を盛り込むことで、逆説的に「夢」「理想」の尊さを描くことに長けている監督でもある。

それは高度経済成長期の『ウルトラマン』から、『ウルトラマンコスモス THE FIRST CONTACT』(2001年)』に至るまで、徹底して貫かれた姿勢でもある。

円谷プロ作品への出向と、ローテーション監督としての手腕の発揮は、『怪奇大作戦』(1968年)まで続き、その後は、木下恵介プロダクションへの出向に変わり、木下プロでは、主にプロデューサー業務を担当するようになっていくが、1971年の『帰ってきたウルトラマン』では、32話『落日の決闘』で脚本を執筆しており、翌年の1972年に制作された、円谷プロ10周年記念映画『怪獣大奮戦 ダイゴロウ対ゴリアス』では、脚本・監督を務めている。

『ダイゴロウ対ゴリアス』は、喜劇俳優の犬塚弘氏や三波伸介氏を起用して、子ども向けに作られた怪獣ファンタジーだが、松竹・木下系で養われた日本的人情喜劇要素と、円谷が本質的に持っていた良質ジュブナイルの資質が、飯島監督の手腕によって、見事に融合された傑作映画である。

80年代には木下プロで『金曜日の妻たちへ』(1983年)の演出・プロデュースで、俗に言う「金妻現象」なるブームを起こした後、2000年代には『キッズ・ウォー』(1999年)などで知られる脚本家・畑嶺明氏と組んで『毎度おさわがせします』(1985年)『夏・体験物語』(1985年)などのティーンズ向けドラマのプロデュースで、常に日本テレビドラマ界の中枢で活躍をし続けた。

ウルトラシリーズに関わったスタッフには、実相寺昭雄氏や山際永三氏のように、芸術派監督としてマイペースで、作品を発表し続けてきた姿勢が、一部のファンから認知されている人もいるが、飯島監督は、常にテレビの最前線で時代と共に活躍を続けてきた。

流行や時流の中心に位置しながらも、円谷での経験や思い入れを、決して失わなかった人でもあり、それは劇場版コスモスの下敷きとなった没脚本『バルタン星人大逆襲』からも解る。

バルタン星人という、日本テレビ史上に残るキャラクターを生み出した飯島監督の、この宇宙人への思い入れもまた格別であり、コスモスでもメインテーマで扱った他、2005年の『ウルトラマンマックス』でも、『ようこそ!地球へ』前後編でバルタン星人を描ききるなど、飯島監督にとってはライフ・ワークとなった。

TBS時代からの盟友・実相寺監督との悪友ぶり、懇意ぶりも有名で、芸術派の実相寺氏、職人派の飯島氏は、作風こそ違えど、同じ時代をテレビ界で生きた戦友同士として、常に互いを認め合っていた仲であったという。テレビ界から脱却し、映画の世界へ転進しようと決めた実相寺氏が、TBSを退社する交渉に向かう際、随伴したのも飯島監督であった。

現在では違う道を歩む者同士の、脚本家・上原正三氏と市川森一氏が、最期まで親友関係であったように、一つの戦場を共有した者同士の蜜月は、それはきっと人生の宝になるのだろう。

飯島氏はその後、木下恵介プロの代表取締役を経て、現在、社名を㈱ドリマックス・テレビジョンと変更した同社の相談役を務めていた。

この記事が気に入ったら
フォローしよう

最新情報をお届けします

おすすめの記事