前回『山際永三インタビュー 第一夜「山際永三と市川森一と『仮面の墓場』と」』

『コメットさん』テロップ

――『コメットさん』(1967年)は、橋本(洋二)プロデューサーのプランニングでは、まずは映像に関してはメインで山際(永三)監督を迎えて、メイン脚本家には大島渚監督の創造社で活躍していた佐々木守氏を迎えて、そういった布陣で女児向けのファンタジードラマを作ろうと思ったわけです。そこで声をかけられた山際監督としては、どういったモチベーションやプランニングで、作って行こうと思われてましたか。

『コメットさん』(1967年)

山際 まず第一話は佐々木守さんを迎えて、設定を説明する話でもあるし、何べんもホン(脚本)を書き直したわけなんですよ。あの頃はまだ、テレビ局(TBS)と国際放映の力関係も、まだまだ国際放映に力があった時期なんですよ。その後はどんどんテレビ局が中心になっていったわけなんですけどね。あの頃は、企画もまだ最初の企画は、国際放映の梅村(幹比古)プロデューサーが考え出して、もちろん橋本さんなんかとも相談しながらなんでしょうけど、佐々木守さんが入ってくるっていうのは橋本さんが呼んだんでしょうね。でも一応国際放映側の力も尊重されてた時期なんですね。一話は、佐々木氏が何度も書き直してね、僕自身も手を入れたりして。その点では、佐々木守さんはちょっと気に入らないってヘソ曲げましてね。橋本さんは「ちょっとそれは直し過ぎだよ」って、言い方をした時期もありました。だけど、それを僕と梅村で押し切っちゃったんです(笑) 特に一話目で、コメットさんがあんまり変なことばっか言うもんで、警察が精神異常者だと思って、精神病院に入れちゃうっていうのがあって、でもそのシーンはいらないっていう橋本さんとかの意見もあったんだけど、僕は「だって宇宙から非常識な女がきて変なことやり始めりゃ、皆アレはおかしいと言い出すに決まってるんだから、だから精神病院にいれなきゃだめだ」って言って。もちろんそこは喜劇仕立てですぐ脱獄してきちゃうんだけど(笑) 強引に押し切っちゃったところがあったんですね。やや僕がシリアスにやり過ぎたところもあったかもしれないけど、まぁ出来上がりを見てね、良く出来てるなと思いましたけどね。

――先ほどから伺っていますと、監督の役割的には、佐々木守氏や市川森一氏が描いたファンタジー脚本を、監督が巧みにフィルム上で、現実という世界に落とし込んでいったと、そういう形に見えるのですが。

山際 そうですね、なんかそこ(ファンタジー)に意味を込めるというか、撮影する現実の「絵」にするというときに、ファンタジーが漫画的なものになるということを警戒してね。なんとか仕上げていくときに、お客さんが「もしかすればそういうこともあるかもしれない」と思わせなければいけないっていうのがあったから。そういう点は自分で主張して直したりもしたんですけどね。ただ、まさにそれこそファンタジーなんだけど、例えばファンタジーでいうと『コメットさん』の第5話『数字ムシャムシャ漢字はパクリ』(脚本・佐々木守)あれはね、佐々木守さんの良さがすごく出ていましたね。市川さんとは違った意味のファンタジーで、コメットさんが子どもと遊びながら勉強を教えていくというところが上手く出来ていますよね。あれは佐々木さんのファンタジーの良さですね。ただそれはあくまでも、現実の学校の授業のつまらなさみたいなものを、新しい魔法による教え方で超えようみたいな面白さがあるわけ。

――佐々木守氏は常に「戦後民主主義の本当の姿」への警鐘を込めていたわけですが、その話でもやはり、戦後の民主教育の姿への、懐疑みたいなテーマがあったんでしょうか。

山際 佐々木守さんももちろん関係あったかもしれないんだけど、佐野美津男山中恒とか阿部進とか、戦後の児童文学で子どもの時代を提起したグループがあって。

こども対おとな―マスコミのなかの現代っ子
阿部進氏と佐野美津男氏による共著『こども対おとな』

――「現代っ子」という言葉を作り上げた、橋本(洋二 当時TBSプロデューサー)さんも意識していた流れでしたね。

山際 そこら辺は皆意識して、戦後民主主義を見直そうという、そういう部分で共感しあってましたね。

――そこで話が少し変わりますが、当時のテレビ界を知る人の中で有名だったのが「橋本学校」と呼ばれた人達でした。橋本プロデューサーに鍛えられた、佐々木守・市川森一・上原正三・田口成光・長坂秀佳、そういった脚本家達を指したわけですが、自分が見ていて思ったのは、ひょっとすると橋本さんは、橋本学校において「これは」と思った新人脚本家は、山際監督と組ませることでテストさせていたような気がするんです。

山際 それはあったかもしれませんね。

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