つまり弦・五コンビは最終編では「典子に育てられ」ながら「典子を一人の女性として育てなおす」役割を担うのだ。
だからこそ、最終回で典子は弦太郎の歌う『お嫁にもらおう』に応じるように「どっちのお嫁さんにいこうかな」と、「女性のしあわせ」を求めて完結するのである。
そしてまた、五郎もタイタニアンの謀略によって一度は死ぬも同然になり、その先でもう一度生き返り、弦太郎も窮地を脱する。そう、三人は三人三様の手法で「人として生き返った」のだ。
子ども向けドラマとしての「敵」が壊滅した時に、三人は三人とも「人間」として、真なる自由をそこで得て、生きていくだけの蓄積を「経験で」蓄えた。
その「経験」を違う言葉に置き換えるべきであれば、その言葉はきっと「戦後民主主義」であったのではないだろうか。アイアンキングと弦太郎の戦いは、戦後日本が真なる意味での民主主義を、勝ち取り活かすための陣痛のようなものであったのかもしれない。
「僕にとっての戦後民主主義とは、教室から教壇が無くなったことであり、先生の位置がその教卓と共に、教室の一番後ろに移ったことであり、そしてグループ授業がはじまり、勉強はそれぞれのグループで自由に進めて、わからないところだけ先生に訊くという方法であり、それまで口をきくことも憚っていた男と女が手を取り合って、フォークダンスを踊るということであった。あの『戦後民主主義』が五十年間着実に歩み続けていれば、イジメやそれによる自殺といった悲劇は、絶対に起こるはずがなかったと僕は思う。『戦後民主主義』は、いつ、なぜ崩壊してしまったのであろうか」
『ウルトラマン 怪獣墓場』 あとがき佐々木守氏
「単なる『国家の為の戦う兵器』だった二人の男」が出会い、連れ合い、悲喜劇を共にして、その果てで人間へと生まれ変わり「本当の『戦後民主主義』の子」として生きていく。
筆者による『アイアンキング』論は一応ここで幕を閉じるが、この時代の先を生きた佐々木守氏の「戦後民主主義」「子ども向け番組」に対する戦いと希望、そして絶望と手応えは『光の国から愛をこめて』Disk.2でも、充分に検証し、論じてみたいと思っている。
『アイアンキング』それは筆者達「現代っ子」に、佐々木守氏がいっとき見せてくれた、「掴めたかもしれない、本当の『戦後民主主義』の行方」であったのかもしれない。
「しかしぼくはやはり子ども番組を愛しているし、これからも様々な方法によって子どもを主な対象とした番組を創りつづけたいと思っている。とはいえ子ども番組は世の『良識』ある人々の眉をひそめさせる対象でもあった。『お手軽だ』『言葉遣いや行動が悪くなる』『勉強しなくなる』『ちゃんとしたものの見方や筋道だった考え方が出来なくなる』……などなど。最近では子どもにテレビを見せない運動や主張も出て来ている。こういったすべての批判を受け入れつつもぼくは思う。それでも『多数決』や『話し合い』を金科玉条に、戦後日本をこんな馬鹿な世の中にしたあなた方より、子ども番組の方がよっぽどがんばって来た、と。そして、さまざまな意味をこめて、ぼくたちがまだ幼いころ親や教師やあらゆる媒体を通じていつもいわれて来た言葉を、いまあらためて思い出すのである。――『君たちはお国の将来をになう大切な少国民なのだ』」
『ウルトラマン 怪獣墓場』 あとがき佐々木守氏
『アイアンキング(1972年)』が戦った時代【完】