本話は『ウルトラQ』(1966年)制作18話『宇宙指令M774』でデビューした上原正三氏の、『ウルトラマン』(1966年)脚本第1作である(金城哲夫氏が共同脚本)。
その内容は、子ども向け娯楽志向の強い、怪獣が多数登場するイベント編である。
上原氏が内包していた作家性はもちろん『帰ってきたウルトラマン』(1971年)以降の、橋本洋二プロデューサー体制による、ドラマ哲学の鍛錬後に開花するのではあるが、その片鱗やルーツは『ウルトラQ』の『宇宙指令M774』などとともに、本話などで窺い知れることが出来て興味深い。
「怪獣がなぜ南からやってくるか」「怪獣はなぜ秘境に生息しているのか」これらのテーマに関しては、90年代の別冊宝島『怪獣学入門!』で、日本近代史学者の長山靖生氏が興味深い論説を展開していて、それは要約すると「近代、南方アジアを侵略統治し、大東亜共栄圏思想を広めていた日本人の深層心理の中には、その目的地であった南方に対する、罪悪感を元にした畏怖心が強く残っており、そこから生じた、日本という国家に対する怨念や憎悪が、怪獣という形で、そういった南方や秘境に生息していて、やがては日本に襲い来るのだという、独特のイメージが根ざしているからである」というもの。
筆者は、この論に関しては異論を挟まないし、深い共感を得るしかないが、では、まさにその「南方の秘境」を舞台にした怪獣絵巻とも言える本話が、かつて「南方の秘境」だった国、琉球・沖縄出身の作家二人によって、紡がれた作品であることの方に、むしろ関心が向いてしまうのである。
これは、既存のウルトラ評論で良く語られる論調であるのだが、前作『ウルトラQ』は、全てのバランスが崩れたアンバランスゾーンの物語であり、人類は、いつの間にかそのアンバランスゾーンへと、足を踏み入れてしまった彷徨える迷い人でもあったのに対し、本作『ウルトラマン』は、銀色の調停者を味方につけて超未来科学で守りを固めた人類社会に、怪獣の側が迷い込んで出てきてしまう世界観なのである。
にも関わらず、本話だけはそのシーソーは逆転し、まさに「怪獣達の王国・秘境に人類が迷い込んでしまう話」なのである。
これが「南方の秘境のヌシビト」たる、上原氏による、本土人・ヤマトンチュへの復讐心の現れであるとの解釈は、いささか突飛なのであろうか?
本話で、怪獣達の王国秘境に迷い込んでしまった人間の、「真なる非力さ」を描いた上原氏は、やがて作家性を開花させた『帰ってきたウルトラマン』では、そのタイトルもずばり『恐怖の怪獣魔境』という作品で、人間がたどり着くことすら困難な秘境の奥に怪獣達を住まわせて、存在を謳歌させるという手法をとった。
上原ウルトラの2本目となる、本作品最終回直前のエピソード『宇宙船救助命令』もまた、地球から離れた惑星上を舞台に、そこに生息する宇宙怪獣達のテリトリーに、科特隊他の人間達が迷い込んでしまう作品である。
人間は、そもそも地上の覇王ではあるが、環境に適応してきたのではなく、文明を武器にして、環境を変えることでテリトリーを拡大してきた存在である。
そしてその力は決して、個人が有する物ではなく、人類という種族が総合して持ち合わせる力でしかないゆえに、個体としての人間は、限りなく無力であるのだと、初期の上原作品は訴えているのだ。
だからこそ、その「種族としての総合力」が発揮できない、未開の秘境においての「一個の人間達」は、怪獣達が支配し、闊歩する世界においてはただただ、戸惑い、逃げ惑い、恐怖に震えるしかない。
その「怪獣世界の秘境」の象徴たる「南方」が、沖縄を意味すると考え合わせたとき、その「怪獣世界の秘境」が、孤立化した人間と相対したときに、決して人間(文明)などには屈指はしないのだという揺ぎない世界観は、日本にもアメリカにも屈することのないウチナンチュの姿勢を、そこに見出すことが出来るのではないだろうか。
そこには怪獣(南方の支配者)達にのみ通ずるルールと、生きていくための不文律と約束事があり、その地を支配しているその生態構造の輪には、矮小で脆弱な人間が入り込む隙間などは、どこにもないのである。
上原氏が、その内包する作家性の中に、ウチナンチュとしての、ヤマトンチュへの深い憎悪と復讐心があり、それが時として作品の形を取って、日本へ向けて放たれているというのは、『帰ってきたウルトラマン』などを見れば誰にでも解る事実ではあるが、その片鱗が見えた本話は、しかし上原氏単筆ではなく、そこに金城氏の力も投じられていたことを鑑みるに、金城氏の中にもやはり、南方・秘境の力を持ってして、文明本土・日本を屈服させたい欲望が内在していたのではないかと、思わせられてしまうのである。
本話舞台となる多々良島に、科特隊が到着したと同時に、繰り広げられていたレッドキングとチャンドラーの死闘は、そこがまさに、怪獣という「既存の生物と似て非なる存在」の野生によって、支配・統括されている世界であると物語っている。