「空子さん。空子さん」

 誰かが呼んでいた。空子には、それが誰の声だか聞き覚えはなかったが、夢の中でその声が石の物だということを、いつの間にか理解していた。

「この声は……アメジスト? アメジストちゃん? アメちゃん? アメちゃんが今、あたしに話しかけているの?」

 空子の反応が馴れ馴れしくなる速さは、尋常ではなかったが、アメちゃんと呼ばれた石枕の声は、乗せられている空子の頭に、直接伝導するように響き渡った。

「空子さん。私を呼んでくれて、私をこの世界に解放してくれてありがとう」

「解放……?」

「そう。あなたは私を、深い闇から解放してくれたのです。だから私は、なんでもあなたの願いをかなえてあげるわ。みたところ、いろいろ闇を抱えているのね。あなたの心の裏をしっかり見ようとしない彼氏。表面上だけ取り繕って、あなたと一緒じゃないときは嘲笑っている職場の女子友達……。あなたの石への愛を、全く理解しようとしない周囲の人達……」

 そこまでをうっとり聞いていた空子が、突然我に返って目を覚ました。慌てて巨大なアメジストから離れ、周囲を見回しながら浅い呼吸を繰り返す。

「今のは……? 今のは、なんの声だったの? 石……? このアメちゃんの声?」

 そう声に出して呟くと、目の前のアメジストが、その問いかけに応えるかのように、いっそう輝きを放って反応した。

「そうよ、空子さん、あなたは私の恩人よ。だから私はあなたの願いをかなえるの。その代わり、あなたは私を決して離さないと誓ってね。男女の結婚の誓いなんかの、薄っぺらい儀式ではなく、命を救った者同士のやくそく……」

 正直、空子の気持ちに恐怖は不思議となかった。むしろ、あり得ないはずの石の言葉が、一言一言ずつ、染みわたってくる感覚は、空子に今までなかった至福の感覚を与えてくれる。
 あたしは何をすればいいのだろう。まだ声に出さず、頭の中で思い描いたその問いに、アメジストは優しい光で反応した。

「悩むことはないわ、空子さん。私をひとときでも離さないでいてくれればいいの。私をさみしくさせないでくれれば、それでいいのよ。そうすれば、私はあなたを守って、自分のミスまで全部あなたのせいにする職場の上司や、あなたが深夜アニメを観ているだけで、騒音だと文句を付けてくる隣人のおばさんも、全て私が片づけてあげるのよ」

「かっ……片づける?」

 思わず、裏返った声で反応してしまった空子だった。しかし、畳の上を四つん這いになった空子は、引き寄せられるように巨大なアメジストの「枕」に近づいていってしまう。

「そう。私はあなたのためだけの枕なのよ。おいでなさい、空子さん。私の上で眠るといいわ。その間に、いろいろなことが本当に片付いていくから。あなたはそれすらも知らずに眠ればいいの」

 空子は、誘(いざな)われるがままに、アメジストのパープルの輝きに向かって、頭を乗せていった。

「だって、あたし、このまま離れられなくなったら……」

 空子が、まるでそれが最後の抵抗であるかのように呟く。しかし、体は逆らえない。
 アメジストは、そんな空子を、優しく包み込んで光を発していた。

「怖がることは、なにもないのよ、空子さん。私とあなたが依存しあったとしても、それは決して悪いことではないの。だって依存の、どこが悪いというの? ギャンブル依存、アルコール依存、たしかに世の中でそれらは『悪』よ。でもね、人は生きている限り、必ず何かに依存して生きなければ、毎日を狂わずに過ごすこともままならないのよ。家庭、職場での役職、勉強の成績、みんな何かに依存して自分を保っているのよ。ならば、依存は決してイコール悪じゃないわ。どこまでもどこまでも、人を幸せにする『支え合い』は、あってもよいのよ」

 途中から、空子の耳にはその言葉が文章としては入っていなかった。アメジストの石枕を、抱き枕のようにうっとりと抱え込み、眠りに落ちる空子が、そこにはいた。

「それでいいのよ……」

 石枕の声は、全てを肯定して空子を包み込んだ。その夢の中で、空子の心の闇は、次々と解決されていった。空子を陰で馬鹿にしていた女子友は、不慮の交通事故で死線を彷徨う羽目になった。嫌な上司は、不倫が全てバレて、家庭崩壊が起きて会社もクビになった。邪魔な隣人は、実家で不幸があって帰郷するために、このアパートから去っていった。全て空子の望み通りになったのだ。

「いいんですよ、空子さん。そのまま眠り続けてくださっていて。その代わり、私をいっときも離さないで。いっときも……」

 ときおり、空子の意識が戻ろうとする流れもあった。しかし、いざ体を動かそうとしてみても、抱きしめた石枕は、まるで腹部に癒着したかのように、抱きしめた状態から離せなくなっている。
 さすがに怖くなってしまう空子だったが、次の瞬間にはもう、暖かいアメジストの光が包み込んできて、そんなことなどどうでもよくなってしまう。
 時折、空子の意識に入り込んでくるのは、今まで空子を苦しめたりした人達の、不幸の報せ。
 それは、空子の心を官能的に揺さぶり続けていた。
 このまま、幸せに眠り続けていていいのだ……。

 ドアがガンガン叩かれていた。ドアフォンも物凄い勢いで鳴らされている。しかし、空子は意に介さずに、石枕を抱きしめたまま眠り続けている。
 外で、勢いのよい掛け声が響いて、ドアが無理矢理開かれる音がした。もう築年数は半世紀とも思われる、古いアパートだからこそ可能な芸当だった。
 ドアをこじ開けて入ってきたのは、真っ青な顔をした竜三だった。

「空子! いるのか!? いないのか! 合い鍵が使えなくなってるからフラれたんだと諦めていたけれども、最近気になることが起こり続けて心配になってきてみたんだ。上がるぞ? 空子、いるのか、いないのか? 空子!」

 空子は、眼は覚めていたが、恋人の声にはまったく反応はしなかった。どんな緊急事態よりも、今もこれから先も、ずっとこの、石枕と一緒に過ごしていたいと思っていたからだ。
 石枕は、空子のお腹と一体化して、もはや見分けがつかなくなっている。
 そこへ、慎重に部屋の中を覗きながら、竜三が入ってきた。

「空子、いるのか? って、なんだよこれ。オイ空子! これ、おい、どういうことだよ……。なんでこんなことに……」

 放っておいて欲しい。空子は心底そう思った。あたしと石枕の、幸せな時間を邪魔しようとする存在は、例え竜三でも敵だ。空子は石に念を送った。

「アメちゃん! 助けて!」

 懸命に石枕にしがみ付き続ける空子。
 しかし、竜三はどこかへ電話をかけていた。

「救急です! 早産かもしれない! 分かりません! とにかく来てください!」

 空子はまだ夢の中にいた。

「それでは、次のニュースです」

テレビから流れてくるニュースを、空子は見知らぬベッドの上で音声だけ聞いている。
あれから数日。まだ空子は、意識だけはあるものの、アメジストの石枕を心の声で求め続けている。今の空子の手が届く範囲に、石枕は存在しない。だから呼び続けるしかないのだ。しかし、いくら心の中で呼びかけても、石枕の反応は返っては来なかった。
ニュースでは、若い女子アナが原稿を読んでいた。

「チバラギ県成戸市で起きた、乳児殺害事件の続報です。生まれたばかりの乳児を、カッターで殺した犯人は、その死体を抱きかかえたまま、実に10日間に渡って飲食もせずに、部屋に籠っていたことが、捜査本部の調べでわかりました。犯人の女性は、収容先の成戸総合病院で捜査陣の質問に対し『石枕のアメちゃんが』などと、意味不明の供述をしており、捜査本部は、精神鑑定も視野に入れて捜査を進めていく方針です。さて、次の話題です。京奈県のアニマルランドの、双子のジャイアントパンダが、今日、誕生日を迎えました」

『石枕』 

追記・ClubHouse等公の場所でこれを朗読や舞台で演じてみたい方は、ご自由に使って頂いて構いませんが、事前に一言、TwitterのDMか、このサイトの「プロフィール&コンタクト」から、市川大河宛にメールなどでお知らせ下さい。

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