えっと、あとがきです。
 やめろ、やめろやめろ! 「それ」は昔お世話になった新井素子先生のキャッチフレーズのパクリだ。
 えーとですね、まぁ、ここまでは前振りなんですけれども、なにゆえに、戯作者や表現者は「この作品の解釈の正解は、受け止めて下さった皆様の数だけあります」という言葉を使っちゃうかといえば、そもそも大前提で言えば「帰結的『正解』を決めないで作品を作り上げることなど、天才にしかできない不可能犯罪であること」を踏まえたい。
 そう、戯作者は皆臆病者なのだ。自分は必死に、懸命に「AはBです」を落としどころにして作品を完成したはずなのに、読んだ、観た受け手が「AがBであるかのようにみせかけて、実は最初からBなんていなかったんですよね」的な、なんだよ、お前の観た作品は、それは押井守作品かよっていう「解釈」を持ち込まれても、しがない作者には「それは違います」を言う権利等最初からないからである。いや、もうちょっと正確な言い方をするならば「こちらの用意した核と、異なった解釈をされた時点で負け」であるからで、この辺は大河さんのサイトでも、『ウルトラマン』(1966年)を作った男、天才脚本家の金城哲夫氏の論などで書いているので、まぁ死ぬほど暇だっていう人は、できればそっちも読んで欲しいわけですが。
 
 要するに、表現に「正解」はあり、それを正しく受け手に伝えるまでが、本来の表現者の責務であるのだが、そうそう万人を相手に全員に正しく解釈を与えることなど、できるはずもなく、だから「答えは皆さんの数だけあります」っていう「逃げの呪文」で逃げることが、マナーであり、緊急避難的な安全地帯確保呪術なのである。
 だからね? からさ? からよ?(by『キングコング対ゴジラ』有島一郎台詞)、もちろん今回皆さんにお披露目した『石枕』とて、そこはそれ「石枕とは本来なんであったのか?」とか「ラストが現実だとすると、どこからが非現実だったのか」とか、こっちはちゃんと「正解」はあるわけですよ、ちゃんと。
 伏線も貼ったし、なんだっけ? ノックスの十階のモスキートみたいな、なんかお約束ルールみたいなのも守ったし、公平に受け手と向き合うために、ラストを予想できる要素もあらかじめ散りばめておいたわけです。
 
 だからして、筆者をして一番かけられたくない言葉が「ラストにはどんな意味があるのですか」なのだけど(もうちょっと難易度が高く、もうちょっと容赦がないリアクションに「ラストの意味が分からないので教えて下さい」という上位互換はあるが)、もし、そんな「親にネグレクトされつつも、学校で教師や上級生をひねりつぶすことでカタルシスを覚えた少年が振り回す、鋭利な刃物」がこちらに向けられた時のベターチョイス選択肢が「答えは観た人の数だけあります」という一択問題アタックチャンス!
 
 そして直後に、演じて頂いたそらぺちさん、こんなトンデモ派生作品を許認可してくださった今井雅子先生へ、抱けるだけの感謝の意を捧げつつ……。そーれーでーはッ シャンシャンシャン お別ぁああれっしまぁああしょぉっ!……とやれば完全犯罪なのだが、いやいやそのお二人を含め、ClubHouse公演をお聞きいただいた聴衆の皆さんへ向けて、もうちょっと真摯に向き合って、あぁ読んでよかったなぁと思える文章を、書いてみせなければ、そりゃあ売文屋稼業が廃りますっていうもんである。

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