それを前提にして、筆者が今回向き合うのは「男性登場人物が数行しか出番がない小説」なのだから、相変わらずこのオッサン、無茶をするよねぇ(笑) 確か「そこへの拘り」は、2014年に、当時はまだ一山いくらだった新人声優さん達をニッポン放送の舞台に上げて演じさせた『カミサマ未満』で懲りたはずじゃなかったかねと、自分だって自分には呆れてしまうのだ。
けどもね?
ここからは「でもしか」の話。
物書きにとって「文章を書く。物語を書く」というのが表現であり、命を吹き込む作業であるように、芝居の表現の最終位置にいる、この場合は声優さんだったり、俳優さんだったりが、これまたしっかりと命を吹き込んでくれさえすれば、「性の壁」を乗り越えられようともさ! とは思って毎回挑んでいるのではあります。
深夜アニメの萌え美少女が、ギリギリバケモノにならないで済んでいるのは、そこで本物の女性である声優さん達が「声を吹き込む」からなのは道理なのだけれども。
けれども「深夜アニメの萌え声を出す練習しかしていない」イマドキの声優さんに「生々しい声を出せ」というオーダーが、如何に奇天烈破天荒で、厚顔無恥な演出なのかを、自分自身で思い知ったのが『カミサマ未満』(2014年)だったのです(見てるか? 臼井晴菜! 村田綾野!……いや絶対に見てないと思うけどね(笑))。
あの時の僕の演出の失敗を、またやらかしてはいけないという自戒を込めて、今回は筆者は、ひととおりの申し送り程度以外は、演出の全てを、演じるそらぺちさん自身に任せて、僕は脚本を書き上げてからは、一番客席に近い位置で見守ることにしたのだ。
そらぺちさんの公演が終った今、全ては「祭りのあとにさすらいの日々を」でしかない。
このタイトルで僕が今何を抱きしめているかに対してピンと来る人もいるだろうが、まぁ結果が全て。出来上がった作品と、それに対する評価が「動かぬ現実」なわけではあります。
今後を量る指針としては、こことnoteでアップした『石枕』に、興味を抱いて「演じてみようか。朗読してみようか」と思われることが起こりえるかどうか。そもそも「そらぺちさん専用にアテガキした作品」に、モチベーションが湧く「声の表現者」がいるのかどうか、そこはどうしても気になってしまう。
そらぺちさんには申し訳ないけれども、僕は一人の戯作者として、表現者として「そういう人」が現れることに期待を寄せてしまう。
「この、市川大河って人が書いた『石枕』って、なんか面白い。演じてみたい」「そらぺちって人が演じたこの『石枕』を、自分も演じてみたい」そういう展開は「期待して」しまうのだ。
筆者は実際に映画の現場にいた経験もあり、声優さん達を指導していた経験もあり、声優さん達を演出した経験もあるからこそ、最初の段階で生み出された、脚本という設計図が、完成作品にどれだけ痕跡を残すのかの現実論を把握している。
それは、一部のオタクが口角泡を飛ばして文芸論で盛り上がるほどには、脚本に忠実に築かれた完成作は少ないのが現実である。
今回でこそ、「作家・今井雅子 脚本・市川大河 演・そらぺち」の三人だけだが、無数のスタッフがユニット単位で交錯していく芝居や映画には、やはり脚本が拮抗できる限界論はあるのだ。
だから、僕もやはり言ってみせるしかない。
「作品の解釈と回答は、受け止めた皆さんの数だけあります」と。
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