「殺人事件を扱ったミステリーにとって『動機』とは、物語的に考えれば、文庫一冊の物量の物語を、未曾有の謎で包み込む核の正体であり、メタ的に考えれば、読者の興味と時間を何時間も引っ張り続けた核の正体なのだから、送り手は、そこにはそれなりの、覚悟と責任を持って、その核にはそれなりの重厚さを付加して、最後に読者に提示しなければいけない」は、確かに言われればそのとおりの道理なのだが、しかしそうなるとどうしても、その「覚悟と責任」のプレッシャーを背負わされた「犯人の動機」は、「引き裂かれた運命の悲恋」だの「旧家に長年受け継がれた、怨念の物語」だの「富豪家の莫大な遺産相続」だの「愛する人を殺されたことへの復讐」だの、事件のボリュームにあわせて、やたら仰々しくインフレを起こすしかなくなり、そして悠久の歴史をもつ「推理小説史」は、もはやそこでネタを使い尽くした感は強い。

また、その動機や「謎の正体」の仰々しさをもってして、厚い文庫一冊分の推理物語を読み切った満腹感に置き換えてしまう推理ファン意識というものも、そろそろどうなのよ感が漂っていたのも、ある意味で80年代序盤までの「ミステリーニューウェーブ」台頭までの、推理小説ジャンル全体の閉息感に繋がっていたのも事実だろう。

そういう意味では「内気で気弱な女子高生が、クラブ合宿の晩に、寝室でオナニーしていたところを、見回りの教師に覗き見されてしまった屈辱が、その教師らに対する連続殺人事件の引き金になる(思いっ切りネタバレ(笑))」は、確かに既存の「連続殺人事件推理小説を支える動機」と比較してはすこぶる弱い。

「たかがそんなことくらいで、10代の少女が複数連携で、連続殺人を行おうなどとは、それが例えフィクションだからとはいえ、あまりにもウェイトが軽く、リアリティに欠けるのではないか」は、本作発表以降、ファンや評論家、批評等において、散々と酷評されてきたポイントではあるが、はてさて、果たしてその(古来からのミステリーセオリーに縛られた)指摘は、的を射ているのであろうか? は、市川大河最大の疑問である。

「むしろオンナノコってそういう生き物じゃない?」

ここの部分で幸せにも、市川大河と東野圭吾氏はシンクロしたのだけれども(本当か?)それは理屈ではなくロジックではない、ニュアンスや手触りのような感覚の問題だけに、今これを読んでいる方に「いや自分はそうは思わない」と言われてしまえば、本当にそこからはもう、一歩も歩み寄れなくなってしまう。

よく、学校の教師と先生との会話などで
「分かりません」
「いったいどこが分からないんだ」
「どこが分からないのかが分かりません」
なんて会話を典型例として見かけることがあるが、それが文学者だろうと小説家先生であろうと、男に生まれた以上は男という生き物の主観で生きるしかなく、いかに女性を観察し、接し、愛そうとも、それは量子物理学を持ち出すまでもなく「観察対象の主観に成り代わることは不可能」なのだから、神の力を持てるはずもなく、男性作家は女性という、女性作家は男性という「自分とは違う生き物」を、それぞれ「何が分からないのか分かりません」のまま、描き続けていくことになる(その辺を意識しつつ、比較しながら、東野圭吾・宮部みゆき両氏を主軸に据えて論を展開していければ、80年代以降の推理文学ニューアカデミズム俯瞰論なんかも、出来そうな気がするのだけど……)。

簡単に言ってしまえば、どれだけ奇想天外な人生を歩もうとも、男に生まれた以上は、生理痛の苦しみを知ることはなく、女性に生まれた以上、どれだけ経験を積もうと、金玉を蹴られる痛みは永遠に理解できないということである(笑)

では、そこで。
いやしくも作家を名乗り、物語を上梓する立場にいる以上「どう足掻いても、逆立ちしても成り代われない生き物」である「異性」の心情を描け、ドラマを語れと言われれば、さて、そこでどう出るかで、その作家の器が知れるのである。

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