その構造は『ウルトラマン』時期においては、もっと顕著な形で描かれることになる。
それは一つには究極の形が、『まぼろしの雪山』における、怪獣ウーと雪ん子の関係性だろう。
ウーはもちろん怪獣ゆえに、人間社会から排除される側にいるが、ここで登場する雪ん子は人間でありながら、人間社会から忌み嫌われて、気味悪がられ、排除されるという「人間の姿をしている怪獣的なる者」として描かれて、そこでのウーと雪ん子の関係は決して周囲に理解されることもなく、また、両者共に周囲に理解を求めることもないまま、閉じた状態で物語は幕を閉じるのである。
金城脚本では、この時期でも『バラージの青い石』のアントラーとチャータムや、『怪獣殿下』『禁じられた言葉』における少年と怪獣・宇宙人など、様々な形、ケースで怪獣と個人の関係を描いてきたわけだが、交通事故死した子どもと、その怨念を受けた怪獣を描いた『恐怖のルート87』や、『ウルトラセブン』(1967年)の『ノンマルトの使者』などにおいては、特にそこで登場する子どもが人間社会に対して、怪獣的なる者からのメッセンジャーとして登場し、両作品ではその子ども自体が実体をもたない「子ども的なる者」として、そこで閉じた関係を視聴者に見せ付けていた。
「怪獣的なる者」と「子ども的なる者」の「閉じた関係性」。
怪獣は社会から排除された存在の象徴であり、子どもは、まだ社会に参加できない存在の象徴であり、そこに金城哲夫が持つ「社会からパージされた者同士にしか理解しあえない、共通感覚」が込められて描かれていたのだろう。
それは、金城自身が異国・日本で抱いた自分への感覚と、決して無関係ではなかったのではないだろうか。
そしてまた、本話はそういう意味では、「ウルトラマンとゴジラの夢の競演」という企画ルックスにはそぐわないほどに、ここで登場する二階堂教授・モンスター博士が、「子ども的なる者」の魂を持っているにもかかわらず、その実質的な存在が社会を構成する側の大人であったばかりに、そこでのジラースとの「閉じた関係」を保つためには、自分の方から、社会をパージした足場へと向かわねばならなかったゆえの、葛藤と悲劇と、そこで生まれた狂気へ向かって物語は帰結するのである。
そこには金城氏による、「自分達が作品で紡ぎだしている、怪獣的なる者と想いを共有できる者は、常に子ども的なる者であるのではないか」という儚い願いを見ることは可能であり、そこで「では現代に生きる現代っ子とやらが、本当に怪獣的なる者との共感が、果たしてできるというのであろうか?」という金城メンタリズムへの懐疑は、もちろん佐々木・実相寺組が『恐怖の宇宙線』で描いてしまうわけではあるが、本話では「子ども的なる大人」と怪獣の結びつきを狂気で描いた金城氏は、佐々木・実相寺のコンビによる『恐怖の宇宙線』を受けた以降は、先述したように、その「怪獣的なる者と閉じた関係を築く人間」を、子どもそのものに絞り込んで作品を書いていくのである。
その源流はもちろん、金城氏のデビュー作でもある『こんなに愛して』(1963年)という東芝日曜劇場を舞台にしたドラマにあり、そこで描かれるヤッコと大助という夫婦双方が、共に「怪獣的なる存在」「子ども的なる存在」として、描かれていることからも解るのである。
ここで描かれる夫婦は、共に成熟さを持たない男女であり、それゆえ二人とも社会からパージされていき、最終的には二人だけの閉じた世界へ篭っていくしかないのだと、この純愛(と言い切ることにいささか抵抗はあるが)ドラマはそういうラストを迎えるのである。
そこでは、ヤッコにとって大助が、大助にとってヤッコが、互いに常に「子ども的なる者」「怪獣的なる者」の役割を交互に果たし、しかし、そこに外界からの干渉を拒絶して成立した閉じた世界は、開かれた外の世界にはない甘美さと暖かさを持っており、どんなに滅私奉公しても決して「公」だけの存在になどにはなれはしない、「個」であるしかない人と人が結びつく関係の中では、そこにしか暖かさはないのではないのかと、訴えかけているようにも思えるのである。
人と人の関係は、人の数だけ、関係の数だけ形があり、人は皆違う存在であるのだから、そこでの関係も全て違う関係であり、一応社会では便宜上「友人」「恋人」「仲間」といった熟語を用いて、その関係性を記号化して認識を、互いが、外野が共有することは可能であるが、はたしてAさんとB君の「恋人」という関係と、CさんとD君の間にある「恋人」という関係は、実は全く違う物である。
相手と自分の関係は、世界に一つだけのものであり、またそれは、相手と自分とのキャッチボールによってのみ構築されていく。
そこには外界のルールも常識も、持ち込む意義はないのかもしれない。
そういった「熟語二文字では言い表せない関係」を、繋がった人の数だけ抱きしめていくのが人なのだと、それを金城氏は「怪獣と人」という形で描いていったのではないだろうか。
それを、もう少し踏み込んで読み解いていくのであれば、「怪獣的なる存在」と「子ども的なる存在」は、実はイコールであり、怪獣とはすなわち、人が自分を他者と区別・差別する部分が肥大化した、「個」という部分の具象化であるとも言えるだろう。
それは、ミクロな人間という存在の中であっては、見え難い要素かもしれないが、それのみを抽出して具現化すれば、それはマクロな怪獣という存在になる。
そしてその「個」のみで存在している怪獣は、いつだって「社会のため」に排除されていくのだという真理を、金城作品は描き続けていたのではないだろうか。
ともあれ、この時期の金城氏が「巨大な存在である怪獣」と「ちっぽけな存在である一人の個人」との間で築かれた、「世界でたった一つの関係」を描くことに、エネルギーを割いていたことは確かなようである。
例えば、本話の解説に移る前に、もう一度『ウルトラQ』の話をするのであれば、確かに『ウルトラQ』の金城作品では、『宇宙からの贈りもの』『ガラダマ』などいった作品が存在していて、それらの話は決して今回筆者が論を展開してきたような「個人と怪獣の閉じた世界」ばかりを描いては居ない。
無論そこには、金城氏自身が、初のメインライターと総合構成を勤める作品であるゆえ、個人的な作劇論だけで仕事をしてはならないという理性も働いていたのだろうが、実は『ガラダマ』『宇宙からの贈りもの』といった作品群もまた、「怪獣と個人との、閉じた世界の物語」であったことが、金城氏が書いた本話『謎の恐竜基地』の準備稿によって、後付ではっきり浮かび上がってくるのである。
本話で描かれたモンスター博士の正体は、準備稿の段階では、『ウルトラQ』で万条目達主人公を幾度となく救った、レギュラーの科学者・一ノ谷博士、その人であったのだ。