――クェスのキャラ造形は、『ガンダムZZ』のエルピー・プルの反動でしょうか。

出渕 どうでしょうかね。後一つはね、(富野監督の実の)娘さんがね、反抗期だったんですよ。娘さんが、クェスの時はあのぐらいの歳で、だから作中で娘に唾を吐きかけられるシーンがいるわけですよ。あの作品の中には富野さんは二人いて、一人はアデナウアー・パラヤで、もう一人はシャアなんです。本当は娘に(劇中のクェスのように)「シャアぁー」って言って寄ってきて欲しい。一方じゃ大人の愛人(ナナイ・ミゲル)もいるけども、娘にも来て欲しい。でも、現実の富野さんは「ペッ」って唾を吐かれる、アデナウアーになってしまっているという(笑) で、次の『ガンダムF91』のころ(1991年)になると、セシリーの歳ぐらいに(娘さんが)なっていて、「女とは御し難いものだ!(『ガンダムF91』劇中、鉄仮面の台詞)」になってるわけですよ(笑) だからね、富野さんの、娘さんとの相対し方っていうのがそれ(作中)で分かるという。でも、子どもができると作中に反映しちゃうのは富野さんに限らない。押井さんとかもね。仕方ないのかもしれないですね。親の情というか。

『機動戦士ガンダムF91』再現より

――富野さんは90年代の終わりぐらいから「映画を撮る者は自分を作家だと思うな! 映画は芸能であって、パブリックなエンターテイメントなンだ!」ってアジテーションするようになるんですけど、実際の富野作品って、殆どがプライベートフィルムなんですよね。

出渕 そうそうそう。パブリックじゃないですよ。だから、小手先でパブリックやってもダメなんだってーの(笑) 最近の『Gレコ』とか観てると、娘さん(富野氏の次女の富野幸緒さんは、コンテンポラリー・ダンス振付家である)が演舞の演出やってるじゃないですか。だから(富野監督の)演出の回し方が、芝居っぽくなってる。お話の回転のさせ方や幕の降ろす演出とかが、とても演劇的な、戯曲に近い形になってきているんですよね。多分それは、娘さんと(関係を)修復して、娘さんの演劇(富野監督の長女は演劇集団 『円』演出の富野アカリさん)とか舞台を観たりしつつ、娘さんに近づこうというところの、無意識の中での反動じゃないかっていう気がするんです。だから大きいハコのところでパブリックなことをやっても、実際にそこで表現される、人間としてのドラマのところは、パブリックになりようがないんですよ。

――その辺りは理解できますが、富野監督の視点になった時、そういった自分の限界とか、年齢とかを踏まえて、自分自身を鼓舞するために、「芸能」や「パブリック」といったワードが出てきてるのではないかとも推察できるのですが。

出渕 うーん。でもね、あの人はそういうところで、本人が「うわべのパブリック」だと思ってないところが始末に追えないんですよ(笑) あの、それ、思い込みだから! 周りがそうじゃないから「お前たちダメなんだァー!」って言ってるだけで。要するに、周りと自分を差別化して「自分の」というところに対して、周りの「受けているところ」が、今のあの人の「仮想敵」なんです。常に仮想敵がいないと、仮想敵がいるから打倒〇〇で燃えられる。あと仕事し続けてないとダメな人ですから。泳いでいないと死んじゃう、鮫やマグロみたいな回遊魚ですから。

――そう考えていくと、長浜さん、コナン、マクロス、エヴァ、進撃。常に仮想敵の存在が不可欠でしたね。

出渕 唯一仮想敵になりえなかったのは、高畑(勲)さんぐらいですよ。宮さんのことなんかも「絵描きのくせに!」とか思っていただろうし、手塚(治虫)先生に対してだって「漫画家ふぜいが!」ぐらいには思っていたのかもしれない(笑)

――ふぜいが(笑)

出渕 そういうのと一緒に、尊敬とか、御自分が絵が描けないゆえの憧れとか、尊敬とかがないまぜになってるとこが拗らせてて人間的で。やはり好きだなあ、富野さんのこと、と再認識しました。

次回は「出渕裕ロングインタビュー10 出渕裕と安彦良和と『機動戦士ガンダムORIGIN』と」

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