「刑法第三十七条・緊急避難 自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる」
本話は『ウルトラセブン』(1967年)全編の中でも、屈指の名作エピソードとして語り継がれており、本話を担当した若槻文三氏の『超兵器R1号』と共に、セブンが単純な勧善懲悪の子ども向けドラマではなく、深遠なテーマを持ったSF的名作である存在性をはっきりさせた名作である。
セブンが持っていた「画一的な正義のヒーロー物ではない印象」を支えたのは、若槻氏の作品群のおかげでだけではなく、『狙われた街』『第四惑星の悲劇』等の実相寺昭雄監督作品や、『ひとりぼっちの地球人』『盗まれたウルトラアイ』等の市川森一脚本作品といったアダルティでハイブロウな作劇を生み出した、この当時の円谷プロ屈指の作家群のおかげでもあるが、そういった群雄割拠の中での、メインライター金城哲夫氏の苦悩と葛藤への筆者的推察は、『ウルトラ警備隊西へ・後編』評論で述べるつもりである。
しかし、並居る志士達の持つ志しと、ドラマ意識の高さから来る「セブンへの問いかけ」は、金城氏一人でアンサーしきれるものではなく、結果として金城氏は自らが『ノンマルトの使者』を執筆することになり、そして『史上最大の侵略』という日本ドラマ史に残る作品を、産み落として消えていくことになるのではあるが、それはまた別の機会の話。
本話を見返していて気づかされたのは、この話は遠大なウルトラシリーズの中にあって、唯一にして無比。
これ以前も、またこれ以降も全く例を見ない作品であると言うこと。それは「一本の話の中で、道義上の悪がどこにも存在しない」という、これに尽きるのではないだろうか?
なるほど、ウルトラシリーズを広く見渡したときに、一概に悪という烙印を押すわけにはいかない怪獣・宇宙人も多い。怪獣当人に非があるわけではなく、人間の無謀な開発や文明によって、住処やテリトリーを荒らされてしまって、やむなく出現した怪獣。
人類の不遜な行為や差別、反道徳的行為が呼び覚ましてしまった怪獣。
地球人の不用意な行為が誤解を招き、また明らかな不義行為に怒りを覚え、地球人を侵略者と認定して先制攻撃に訪れた宇宙人。
ウルトラシリーズは、そういった怪獣や宇宙人を様々な角度から描き、そういった対象・存在を描くことで、合せ鏡的に人間・人類を描いてきた。
だから、確かに「単純な悪ではない怪獣・宇宙人」は少なくはない。
例を挙げれば枚挙に暇はない。
しかし、バトル物・ヒーロー物としての番組のルックスや、中心視聴者たる児童のニーズを考えると、それら「本当は悪くない怪獣や宇宙人」にも、とりあえずは暴れてもらわなければ、クライマックスが成立しないという不文律を抱えていた。
『ウルトラマン』(1966年)に登場した、ネロンガ、ザンボラー、ゲスラ、ドドンゴなどは、人間が呼び覚ましてしまった罪もない動物なのかもしれないけれども、彼らは結果として人間社会を破壊すべく暴れまわった。
これは人間社会的な一面性から見ると、脅威であり悪である。
『帰ってきたウルトラマン』(1971年)に登場した、シーゴラス、シーモンス、テロチルスなどといった怪獣の多くは、独自の生態を持ち、その結果人類社会の存亡危機に発展するものの、そもそもの怪獣側にしてみれば、人類への敵視すら希薄なケースが多いが、それは互いのテリトリーの侵食という構図を伴って、怪獣破壊と人類の戦いという現象を呼び覚ました。
一見には、勧善懲悪という図式から意図ずらしを行ったように見える、実相寺昭雄・佐々木守作品にしてみたところで、怪獣という存在から、人類社会への悪意と敵意をスポイルしただけであって、そのスポイル作業によって、その「怪獣の抜け殻」に残る「巨体と脅威を与える存在感」が、結果としての破壊と、人類との対立を生み、怪獣は人間とは、決して相容れないのだというテーマと共に、どれだけ我々視聴者がガヴァドンやシーボーズに思い入れを持とうとも、そこにある破壊活動や反社会的な生態という「行為」だけ抽出してしまえば、ウルトラマンが立ち向かう、倒す大義名分はしっかりと成り立つのである。
そう「ウルトラマンが戦い、倒す大義名分」。それは例えば人間社会の中で例えるのであれば「警察が逮捕する理由」つまり法律や刑法に相当する。
そこに、どんな理由があろうと、どれだけ仕方ない事情があろうと、どれだけそもそも人類の側に非があろうと、そこが「人間の社会」である以上、怪獣や宇宙人が、結果的に破壊活動や侵略活動を行ってしまえば、そこでウルトラマンやセブンには「その怪獣・宇宙人を倒し排除する義務」が発生し、結果ドラマは、戦いのクライマックスを迎えることができるのである。
そういった展開を用意することで、個々の作家や監督は、番組のルックスを成立させつつも、様々なテーマを持ち込むことができるのだ。