ペガッサは、そのバランスが優れていたからこそ、自分の星が消滅するときでも、科学で建設したペガッサ市に移り住むことが出来、そこで(バルタンのような)他星侵略民族に落ちることもなく、空気も水も、科学で作り出して、種族が死滅しない道を歩むことが出来た。

一方(セブンで描かれた近未来の)人類は、勝手に飛ぶ星の上にしがみ付くしかなく、軌道もコントロールできないし、水も空気も、自然の恩恵しか受けていないにも関わらず、武力の科学だけはペガッサ以上に進化していた。

それは、ペガッサの方が理想的に見えるのだけれど、実際の物語でペガッサ市は、自身の科学では予測不能なトラブルを抱えた途端に、地球と衝突の危機を向かえ、最終的には死滅してしまったという、アイロニカルな結末を迎えてしまう。

一方地球は、自星の軌道を変えることすら、ままならなかったが、その突出進化した武力で、ペガッサ市を爆破することで、結果的に生き残ることができた。

この「全てを科学にゆだねた、ペガッサ市は全滅し、自然に身を任せた地球が結果として生き残った」という構図は、一見すると「科学を全面信仰してはいけない。ある程度自然を残し、文明と自然が共存することが大事なのだ」という地球文明肯定テーマにも受け止められるが、しかし、最終的に地球を衝突消滅から救ったのは、決して「地球の人類が共存していた、自然の力」ではない。

むしろ「軌道も変えられない星に、のっかったままでしかない程度の人類が、不釣合いにまで突出進化させた武装科学力」のおかげなのである。

そもそも、地球人類がその進化過程において、その科学という力を、武力などではなく、もっと他の分野やジャンルに注いでさえいれば、本話で描かれたクライシスに対しても、ペガッサの要請通りに「地球の軌道変更」で応えることができ、それができれば何も、ペガッサ市を爆破する必要などどこにもないのだから、悲劇などは起きることもなく、むしろダンやアンヌがダーク・ゾーンと、仲良くなれたように、人類もペガッサの民と友好関係を結べただろうにと、そういう疑問は払拭できないのである。

ある意味「原因探し」を行うのであれば、本話における悲劇の根源は、人類がその科学という力を、常に武力、兵器開発などに向けて発展してきたからこそ、悲劇は起きてしまったのだというテーマが、本話に内包されているのである。

実際現実に、我々が生きている現代を基準に考えれば、それはまだまだ(科学が武力に向かうのか、いつ起きるとも限らぬ、宇宙的危機を回避するためにも発展するのか)発展途上であるかもしれないが、円谷が、マルザンという玩具会社が『ウルトラセブン』という未来世界作品で、男の子に喜んでもらう、玩具を買ってもらうために用意した、様々な科学兵器(ウルトラホーク他)という世界設定小道具の数々は、結果として「武力だけが突出して進化してしまった人類社会」を描写してしまい、それは確かに、他星からの侵略に抵抗するための正当防衛武力かもしれないが、その科学が他の分野にそもそも注ぎ込まれていれば起き得なかったはずの悲劇を、若槻氏は本話で描き出してしまったのである。

以前読んだ本で、脚本家・市川森一氏が自作『私が愛したウルトラセブン』(1993年)に触れて、「『ウルトラセブン』の作品群を振り返ってみると、ハッピーエンドが一本もないことに気づく」と書いてあり、一時期は筆者は「え?でも『怪しい隣人』だの『消された時間』だの、初期にはどう見たってハッピーエンドな作品も多いと思うんだけど?」と思っていたが、今回こうやってブログを執筆するために、セブンの様々なエピソードを真剣に見直していて、思いおこされることも数々出てきた。

それは「結局地球防衛軍もセブンも、力と武力で敵を強制的に排除したに過ぎず、結果それは、まさしく『血を吐きながら続ける悲しいマラソン』のように、次から次へと新たな侵略者を呼び込む撒き餌になってしまうわけであり、力に力で対抗し続ける限り、その先に幸せや平和は永遠にやってこない」という、セブンが抱えていた根幹の部分の闇を示唆しているのだと理解した。

それは、単純に「極悪で悪魔のような宇宙人が、卑劣な手段で起こした侵略に対し抵抗する構図」であれば、まさにそれは正当防衛であり、その裏にある「力には力を」というデッサンは目立たないが、本話のように、正当防衛ではなく緊急避難という物語構図は「力がなければ生き残れなかった事実」と共に「力を持っていたゆえに起こしてしまった悲劇」の存在を、まざまざと見せ付けることになるのである。

以前、筆者が仲良くしている10代の友人の女の子に、緊急避難の概念を、先述したカルネアデスの板を用いて説明したところ「あたしはそんなことまでして生き残りたくないな」と答えてきた。

全ての生物が参加しているはずの生存競争の中では、奇麗事は許されず、物を食うという行為も含めて「生きること」全てが「他の命の犠牲によって成り立っている」という真理を、受け止めて生きることが人間にとって大事なテーマではあるが「自分はそこまでして生き残るほどの存在なのか? そこまでの価値が自分にあるのか?」という自己への問いかけは、やがて「自分の命は、果てしなく多くの、尊い命の犠牲によって成り立っている。大事なのは、ここまで生きた以上、それだけの犠牲になった命に恥じない、価値のある人間になることである」という自覚へ成長するべきなのではあるが、果たして幼い頃に『ウルトラセブン』を観た子どもの何人が、自分達がノンマルトの、ペガッサの、尊い犠牲の上に、生き延びたに値する価値を自分に持たせられたのか、少なくともその責任と覚悟を自覚できたのか。 筆者は、今のネット社会に蔓延する、他国人差別やイジメを目にするたびに、そこに疑問を抱き続けざるをえないのである……。

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