その中ではしばしば、出演する人間の側が、自然という、無限の時間と地平を制する存在の大きさに対して、人類と、人類が生み出した科学というもののちっぽけさを実感させられて、立ち尽くし、呆然とするしかないラストを迎える話も少なくなく、本話もそういった形で、感傷的なエンディングになっている。
7千年前にこの地球を支配していた旧人類が、基本肉体構造以外は、全く今の人類とは相容れない存在として描かれていて、しかも謎の巨大生物と「不思議な関係(by岩本博士)」で結ばれているという、想像力を刺激するロジックで構成されている本話の謎は、バルタン星人やダダなどへの理解不能な違和感や、『悪魔はふたたび』における「古代人がいったいどんなテクノロジーで、怪獣を液化して封印したのであろうか」といった謎と共に「しょせん人類と、人類が生み出した科学が把握しているのは
長大な歴史の中の一部と、膨大な自然真理の中の一部だけでしかない」という、物語世界根幹設定を明確にしていて、しかもそれは『ウルトラQ』(1966年)の基本設定と同じなのである。
野長瀬ウルトラマンは、アントラーを倒すことで時間と空間を制したが、藤川氏が描く岩本博士は、グリーンモンスの脅威や、ミイラ人間とドドンゴの神秘的な関係の前に立ち尽くすしかない。
それはメタファー的に捕らえるのであれば、テレビを観ている子ども達にとって、脅威と想像力を与える怪獣が、それが子ども達だからでそう感じるのではなく、人類と、人類が生み出した最先端の最新科学にとっても、同じように不可思議で神秘的な存在であるのだということを、大人社会の、しかも人類が生み出した科学代表という肩書きの岩本博士に、絶句させて佇ませることで、説得力を持たせているのである。
藤川氏脚本は、岩本博士を前面に押し出すことで、不可解で不可思議な事件を論理的、科学的に追い詰めていく過程を描き、それは疑似科学物語としては秀逸で、ある種の安心感を醸し出すのだが、科学とはあくまで解釈の方法論でしかなく、むしろこのような世界観の物語は、「科学で最終的に解き明かされずに終わる謎」の方にこそ妙味があるのだと、藤川氏はさすがに分かっている筆運びで物語を導くのである。
本話が前述したように「ミイラ人間とドドンゴの閉じた関係性」を、強く打ち出して描いているのは誰の眼にも明らかではあるが、藤川氏脚本にとってその閉じた関係性は、例えるのなら、上で書いた「解き明かされずに終わる謎」の象徴として、常識や視聴者、人類にとっての「触れられない外側」に置かれている。
それに対して、金城作品での閉じた関係性は、誰にも触れられたくない、自己の内側の世界観として描かれていて、どうせ誰にも分かってもらえない、だから分かってもらおうとしない。
でも本当は分かって欲しいのだよという、三段階のジレンマに包まれていて、他作家とは少し違った、生々しい情感で築き上げられている。
この、藤川氏と金城氏の「閉じた関係」の扱い方の違いは、若槻文三氏の『ダーク・ゾーン』と、金城氏の『ノンマルトの使者』における、「異民族同士の衝突」という要素の扱い方の違いに似ていて、そしてまた、本話を改めて観た上で『謎の恐竜基地』を思い返したときに感じる、金城氏ならではの「視聴者に見せ付けているにも関わらず、視聴者の感情移入や理解を拒む」というスタンスは、『宇宙囚人303』のテーマの描き方を、強く思い起こさせるのである。
戦後民主主義が、その功罪あわせて社会に定着しつつあったこの時代。
個同士の、そこにしかない結びつきと、それがもたらす社会への影響という、ある意味、この時代が必然的に産み落としたテーマを、巨大な怪獣と一個の人間に投影した構造は、この時期、円谷プロ以外でも大映の『ガメラ』(1965年~)シリーズ辺りなどでも、怪獣ドラマのひとつの典型として描かれていくようになる。
いつだって怪獣は、種としてではなく、個体としてしか描かれないことが多く、つまりそれは肥大化した個の象徴であるのだが、その、存在だけが肥大化したマクロな個と矮小で埋もれた存在であるミクロな個(それはまさに、社会的にミクロな存在である子どもである場合が多い)との、親密で閉じた関係というのは、民主主義という概念の取り扱いに戸惑い、迷走した戦後日本にとって、相応しいテーマだったのかもしれない。