いやいや、たしかにこの一篇。京極氏の脚本は、脚本家としては素人だという前提で観れば満点だし、一刻堂のデザインも、うまく荒木氏がリファインしやすい描線を、逆算したかのように予め描かれている。
肝心の声優演技の方だが、さすがに本職ではない上に、京極脚本なものだから(笑)全編しゃべりっぱなしが続くし、メインゲストキャラなので出ずっぱりなので難ありなのだが、むしろ京極演技を聞き続けていくうちに「これ(一刻堂)は、こういうもの(京極氏の声)なのだ」と思えてきたり、京極氏が今まで執筆してきた『京極堂シリーズ』の主人公(と同一視するよね? いくら京極氏が念を押そうとも)は、作者の中では、こういうトーンでこういう口調で語っていたのだと、認識できるテクストになっていたり、いろいろ楽しめるという意味では面白く出来上っている。
オマケに、もう一度この『ゲゲゲの鬼太郎 解体新書』に話を戻せば、こんだけ(歴史ある『鬼太郎』の全解析決定版書籍という触れ込みにもかかわらず)徹底的に、『言霊遣いの罠!』に尺を割いた挙句に、本書とは別個に別冊扱いで、その『言霊遣いの罠!』の脚本がついてくるというとどめの一撃!
ここまでくればあっぱれで、むしろ“それでも”歴代のアニメ版や原作版を、漏らすことなく取り込んだ編集方針には頭が下がる思いでいっぱいになる。
最後に。
ネット等で晩年は、水木御大の名言集のような形で、「私は得な性分で、つらかったことは忘れ、楽しかったことだけを覚えている」や「他人の思惑などに振り回されず、自分のやりたいように生きる。外の世界にいちいち対応せず、自分の世界の流儀でやればいい」や「『楽をして、ぐうたらに生きる』が私の座右の銘」や、手塚治虫氏や石森章太郎氏は、徹夜ばかりして、仕事に明け暮れてしまったから短命でこの世を去った。自分が長生きできるのは、がんばりすぎないからだ、的な「水木原理主義」のようなものが持て囃されていて、確かにそれらはすべて水木御大がご自身で仰った言葉ではあるのだが、それをただただ受け売りで、グータラ自己肯定に繋げてしまう事が如何に愚かなことかを、本書を最後まで読むとよくわかる編集になっている。
本書の最後には、水木御大が武良茂名義で、まだ『鬼太郎』がブレイクする前の、1964年から1965年にかけて、雑誌『ガロ』に連載していた『漫画講座 漫画のかき方』なる短期連載が収録されている。
この連載自体は、石森章太郎氏の『少年のためのマンガ家入門』発行(1965年)とほぼ同時期なのだが、こっちの大ベストセラーと比較してみると面白く、大事なのはその内容である。
晩年、グータラな自分をアピールして、怠惰性を体現していた水木御大が、若い頃どれだけの精神根性主義で、自らを鼓舞し、血の滲むような努力を積み重ねてきたのかが、一目で分かる構成になっている。
我々「戦後の日本人」特に、筆者のように高度経済成長期以降にぬくぬくと育まれた日本人は、実は水木御大のような偉大な存在からは、密かにからかわれていたのかもしれない。
妖怪とは、決して怪獣とイコールではなく、必ずしも人と敵対したり、害をなす存在とは限らない。
その多くは、人をからかい、笑うだけの物も多かった。
「実は、水木しげる氏そのものが、妖怪だったのではないか」という、少し首を突っ込めば誰でも言えそうなこの一言を、我々現代を生きる日本人は、今一度その深遠さを考え直してみた方がよいのかもしれない。
本書は、そこへ導いてくれるテクストとしても、有効な一冊に仕上がっている。