ここでは明確に、『故郷は地球』で佐々木氏が描いた「遠い惑星に取り残された一個の人間」が「復讐と怨念の力だけで生き延び」て、「結果人間ではない存在」になって「復讐のために地球へ戻ってくる」という物語が、金城哲夫によって描かれている。

また、もう一つのポイントとして言えるのは、ジャミラは自らの体を怪獣化させて、一人で地球に舞い戻ってきたが、この話におけるMO.3は、怪獣と供に、筆者が今までの評論で述べてきたような「個人と怪獣の閉じた関係」を、復讐を果たすために築いて、地球にやってきた点である。

しかし、この話と『故郷は地球』は、その表層上のドラマ構造は、極めて相似形的な関係を持っていると思える。

では、金城氏によるこの復讐譚と『故郷は地球』を、明確に分け隔てている要素はなんであろう?

それは復讐の対象であろう。

佐々木氏の『故郷は地球』では、それは佐々木氏が書いた刑事ドラマの名作『七人の刑事』(1961年~1969年)『ふたりだけの銀座』がそうであったように、自らを追い込んだ対象とは全く関係のない、むしろ、主人公が追い込まれていることすら認知しない対象へと向かい、怨念と復讐心を持った者は、全ての平和と無関心と無知を憎悪する。

そこでの復讐行為は、既に復讐という目的を失い、追い詰められて消え行く自我を、最後まで自分を認知しなかった社会へ、刻印するかのように暴走して、制御不能になっていくのだ。

それに対して、金城氏が『認識票NO.3』で描いた復讐は、品行方正なまでに「自分を追いやった対象」へと真っ直ぐ向かい、その復讐を成し遂げた復讐者は、最後にその魂が浄化されて終わっていく。

金城氏のその構図は、『恐怖のルート87』『ノンマルトの使者』でも描かれる。

金城氏の復讐構図は、同じ琉球人である上原正三氏のそれと酷似しており、(もっとも上原氏のそれは、さらに「復讐しても浄化されない怨念」として、そして、その言葉の持つダークな意味合いとは別に

「ヒーローのモチベーション」としても描かれるのであるが、その話は違った機会に譲るので、ここでは割愛する)そういった金城・上原氏の「それ」と、佐々木氏の描く「それ」の差が、佐々木氏が語った「僕には差別された経験がないからです」に起因するのか、そこは筆者にも明確な線引きが出来ないのであるが、決して佐々木氏が、差別や復讐という精神構造に、無頓着であったわけではなかったことは、誰もが例えば、失恋した直後などに、電車や街の雑踏などで、幸せそうにしているカップルなどを見たときに、恨めしく思ったことがあるだろうということからも解かるはずの「普通に生きる人間の真理」でもあることが理解できる。

ではこれが、今回紹介したガヴァドンになるとどうなるかというと、ガヴァドンは、そのメンタリティの中に「復讐すべき存在」を持たないのだ。

それは既存の評論にもあるとおり、高度経済成長のぬるま湯の中で、ぬくぬくと守られ育てられたムシバ少年達には、怨念も復讐も、何もバックボーンはなく、それゆえに、彼らを投影して出現したガヴァドンには、街を壊し暴れるという、怪獣のアイディンティティそのものが空洞化して欠落しているのだ。

これはつまり、佐々木・実相寺コンビにとって、怪獣が必ずやそのアイディンティティの根底に、自らの存在に対する「怨念の対象物」が不可欠であるという解釈があるのだと、そういった二人の価値観を、ここに見出すことが出来るのである。

では、そんな「空洞化した怪獣」ガヴァドンを、出現・成立させてしまった要因は、いったいどこにあったのであろうか?

怪獣が、そこに怨念や復讐心がなければ、怪獣足りえる存在にすらならず、それらがない怪獣は、もはや怪獣ですらないのだとすれば、「怪獣」ガヴァドンは、なぜ生を受けて実体化したのであろうか?

佐々木・実相寺コンビが、同じく『ウルトラマン』で放った作品『故郷は地球』での、ジャミラが突きつけた刃が、その裏側で流された悲劇を知らない、平和に幸せに生きる、全ての人類に向けられた楔だとするのであれば、本話のガヴァドンが、その「怪獣性の喪失」という刃を向けた対象は、「内なる怨念も復讐対象も持たないにも関わらず、そういった『怪獣性の本質』も理解しないま、無自覚に怪獣に憧れる、テレビの前の子どもたち」だったのではなかろうか。

当時の佐々木氏に見えていた「怪獣ブームに熱狂する子どもたち」は、現代において例えば「戦争の本質も悲劇性も、そこにある底の見えない悲しみも見ようとせずに、理解できないのに、ただただ兵器や銃器に憧れて、軍服に身を包む戦争マニア」のように、その目に映ったのではないだろうか。

それは例えば、佐々木氏の代表作『ユンボギの日記』(1965年)などで、平和に安穏とし、海を隔てた外国でリアルタイム進行している悲劇を、知ろうとしない日本人全てに突きつけた刃にも似て、かように、佐々木脚本はいつでも「無自覚」を撃つのである。 そしてその刃は、決してテレビの向こう側にいる、視聴者にのみ向けられたものではなく、制作サイドで共に机を並べていた、金城哲夫氏の内面をも、突き刺し、えぐっていくのであった。

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