その後のいろいろ、アレコレは枝葉末節になるのでここでは記しませんが、私にはその「未完に終わった理由」が分かるような気がします。
「人間の生きる業の中に、戦争がある」という真理のテーマに対して、完全な決着をつけないままに、もっと壮大なテーマへ向かおうとした結果、あちらへ向かってもこちらへ向かっても、行き詰まってしまう「環境」を、サイボーグ戦士達に与えてしまったのではないでしょうか?

思えば当然です。
私は少年期に初めて漫画版を読み、東映動画のアニメも、辻真先芹川有吾コンビ作品等に心酔しつつ、その後平成アニメ版まで追いかけた身ではありますが、特に009ファンダムの中で、功績ある目立ったファンアート活動をした経歴はありませんでした。

ところが、私が今回フィギュアを(平成アニメ版放映当時以来再び)手に入れて、ネットで遊んではしゃいだ(のが悪かったのか)結果、なんでも「009ファンアート界隈では大御所」だかなんだか知りませんが、まぁ「昔は漫画家もやっていた」という、「あぁ、うん」という「いつものパターンの経歴」さんが登場し、私のアンチと堂々と表で見える形で画策打ち合わせをして、妙に馴れ馴れしく私に近づき、結局私が大事にしている(と自身も外からも見える)人間関係を破壊させたり、横槍を入れることで、快楽を得るタイプの下衆だったのです。
「そんな下衆」でも、クラスタの中では「大物」「大御所」「皆に慕われてる」足場を築けるのが「009界隈」であり、要するに今の私の見解的には、少なくとも『サイボーグ009』という作品は、「戦争との戦い」を放棄したまま、「天使」とも「神々」とも決着を付けぬまま、「この手の輩」ばかりを量産していったコンテンツになっていったのだ。そう受け止めるしかありませんでした。

しかし、もちろん、故人であられる石森章太郎氏の志は、そんなものではなかったことは分かっています。石森氏自身、漫画界で他に類を見ないほどに数々の実験漫画を生み出しつつ、実験が成功してしまうと満足してしまうのか、きれいな着地をした作品の割合が、あまり多くない天才でした。

ファンからは、もちろん「そこ」も愛されていたわけですが、しかしその一方で、家族も(子どもも?)いるだろう、大の大人が、非人道的かつ非倫理的な策略と連係プレイで、そもそも無関係の第三者の人間関係に割って入り、人と人の信頼関係や絆に対して、破壊工作や裏工作を繰り返す。「これ」が「『サイボーグ009』が産み落とした子どもの数十年後」だというのも、一つの「動かない事実」なのです。

それでも。それでも、私に出来る事。
石森章太郎氏を敬愛し続け、姑息かつ下衆なナワバリ意識を無視しながら、金字塔たりえる漫画界に残る傑作に対し「自分なら出来る返礼」


1992年。
その頃、既に『マンガ日本経済入門』のベストセラー等で「難しい世界経済を漫画で読ませる偉大な漫画家」となっていた石森氏が、産経新聞の元旦号で、全ページカラーで、新年に集まったサイボーグ戦士達が、それぞれ自分の国の国際情勢や経済、外交問題点を述べ合い、世界平和を新年の決意の表れとするという内容の『サイボーグ009 緊急シミュレーション1992』編が描かれました。
なんのことない企画モノ漫画ではありますが、後から振り返る時、これが石森氏自身が筆を執った『サイボーグ009』漫画の、絶筆作品になってしまいました。

「アレ」からちょうど30年。
2022年は、ロシアがウクライナに侵攻して戦争状態になり、まだまだ人類は戦争を忘れ去ることは出来そうにもありません。
けれど、それでも私に出来る事。
それは、石森氏が、おそらく最後に描いただろう「漫画のコマとしての『サイボーグ009』の最後」であるコマを、そのままに再現して「伝え続ける」ということです。

人類は愚かです。石森氏が人生を賭してテーマを込めた漫画の表層しか受け取らず、イイオトナになっているのに、まるで思春期のような、イジメ感覚の対人関係破壊に興じてご満悦の愚か者もおります。

けれど私は、このメッセージを伝え続けます。
さて、今日はこんなところです。

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