たとえば「パロディやオマージュそのものが禁忌なのか。是なのか否なのか」で言えば、それは「そのパロディやオマージュを入れる器次第」だというのが妥当なのではないだろうか。
筆者に言わせれば庵野秀明作品は、自主映画時代から一貫して「そこに何か深遠なテーマやドラマがありそう」に思わせつつ、実は全てが「パロディやオマージュを入れる器」でしかないという印象しかなく、筆者はどうも受け付けないのだ。
ただただ「パロディやオマージュはあかん」という難癖だけでは、それこそ伊藤計劃氏の生涯の名作『虐殺器官』をも批判しなくてはいけなくなってしまう。
けれども、私怨でこれを書いているわけもなく、例えば同じ「パロディやオマージュが一杯詰まったアニメ」でも、押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』(1984年)は、配給が東宝ということもあって、あちこちに隅から隅まで東宝特撮映画のパロディのオンパレード。劇中作で初作『ゴジラ』(1954年)を、まんま再現しちゃう演出まである。

『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』より

だがこちらは、後にパロられる側に回りこそすれ、ドラマとテーマと演出が、アニメの歴史のターニングポイントになるまで練りこまれたオリジナリティを発揮している。

『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』より

要するに「パロディやオマージュ」が「粋な遊び」なのか「オタクアルアル見つけ出しクイズで作品のメインコンテンツ」なのかでその価値ははっきり分かれるというところ。
お堅く言ってしまえばこうなるが、今回自分で商業小説と改めて向き合ってみて思うのは、「こういう小ネタ」っていうのは、意識しなくても意図的にあざとく入れ込まなくても、人生で摂取した栄養素がきちんと吸収されていれば、自然とにじみ出てくるものであって、意図的に空間恐怖症の描き込みのように混入させまくる必要などないのである。

今回の筆者の『折口裕一郎教授の怪異譚 葛城山 紀伊』は、ある種基本設定的構造が、筆者が生まれた年に誕生した『ウルトラQ』(1966年)と相似形にあることも、筆者は書き終わるまで意識していなかった。


筆が乗って、とある台詞を書いたとき、アレ、これはどこかで聞いた物言いだなと思ったとき、それが『ウルトラQザ・ムービー 星の伝説』(脚本・佐々木守 監督・実相寺昭雄 1990年)の、とある台詞とほぼ同じだと気付き、そこであらためて「あぁこの人物配置と物語構造はそもそも『ウルトラQ』なんだ」と自覚したのだ。

『ウルトラQザ・ムービー 星の伝説』より

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