前回は「三留まゆみ×市川大賀 第三夜「三留まゆみとInterviewと」」
大賀 これはコモンセンスの問題なんですけど。イマドキの流行りの映画を何本観ても、イマドキの深夜アニメを何本観ても、あるバイアスのかかった価値観しか育たない。要するに、「人間の文化」って古くからあるんだから、シェイクスピアから始まってもいいし、古今東西、映画も演劇も戯曲も小説もいっぱいあるんだから、絶対的にそれらに触れるところから始めた方がいいんですよね。でも、僕らの世代って今回の対談冒頭でも語ったように「上の世代」へのコンプレックスって絶対的にあるから、コモンセンスもそういう人達の方が、一歩二歩、先んじている。それをザァーっと遡っていくと、どこまで遡ればいいのかが見えなくなる。僕は掛け値なしにワンルームの自宅に900タイトルのDVDを持っているんだけれども。最初はBuster Keatonの『キートンの蒸気船』 (1928年 監督:. Charles F. Reisner 原題: Steamboat Bill Jr)から始まって、2023年の映画まであるんだけど。そこで、まずは例えば『暗黒街の顔役』(1932年 監督: Howard Winchester Hawks 原題: Scarface)を観ておかないと、リメイク版の『スカーフェイス』(1983年 監督: Brian De Palma 原題: Scarface)も、岡本喜八版の『暗黒街の顔役』(1959年 監督:岡本喜八)も、理解できないというね。いや、物語単体ではどれもスタンドアローンで理解も出来るし傑作なんだけど、今では歴史でしか知らない禁酒法時代のアメリカ文化とかを前提常識として取り込んだ時代の作品を「これが原典でオマージュ元で」を、知っているのと知らないのとでは、やはり後発作品を観た時の感じ方が違う。違う話で言えば、George Andrew Romero監督の、最初のゾンビ映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968年 原題:Night of the Living Dead)なんかを観るのにも、ベトナム戦争っていう当時の時代背景を皮膚感覚で知っていないと、なんであんな映画が撮られたのか分からないじゃないですか。そういう風に考えていくと、どこまで遡っていっても足りない。「僕らの時代はどこにある?」って自問した時に、そうなるとやはり、三留さんの場合は『ファントム』が、これから生きていく先でも、ずしっと重たく軸になっていくんだろうなって思うわけです。