三留 80年代は撮影所のシステムが壊れちゃって、インディーズの映画とかも出てくるようになって、若い監督たちが一気にスクリーンに登場してきた時代なのね。大林監督はそれでも、それまで自主映画を撮ったり、映画監督としてデビューする前も後もCMを撮ったりしていたけれども、そういった経験すらもない、いろんな形で新人監督が出てきた時代でもあったのね。それは、私たちにとって、観客にとって、すごい近い年代の監督たちだった。大森一樹もそうだよね、70年代の終わり(デビューは1978年『オレンジロード急行』)だけれども。森田芳光)監督も『ライブイン・茅ヶ崎』(1978年)とかを自主映画時代に観てるし、そういった自主映画の監督たちが(商業)映画の方にどっと出てきた。それがだいたい、70年代の終わりから80年代にかけて。だから、映画の表現や形態、映画そのものが一気に若くなったのね。で、角川春樹がそういった若い監督たちに、次々にチャンスを与えた。相米慎二監督だったら『セーラー服と機関銃』(1981年)、森田監督だったら『メイン・テーマ』(1984年)、大森一樹だったら『花の降る午後』(1989年)とかね。

セーラー服と機関銃

大賀 かたっぱしからでしたね。根岸吉太郎さんもそうだし、崔洋一監督も『いつか誰かが殺される』(1984年)『友よ、静かに瞑れ』(1985年)で角川映画を撮ってるし。井筒和幸監督だったら『晴れ、ときどき殺人』(1984年)が角川映画にあるしね。

晴れ、ときどき殺人

三留 角川は、とにかく新しい映画を、若い監督に、若い観客にっていう。それは、メジャーの映画会社が出来なかったこと!

大賀 それこそ『人間の証明』(1977年 監督:佐藤純彌)で、主役の刑事コンビで松田優作とハナ肇さんが並んでる図というのが、それまでの五社協定的にはありえないことなわけで(笑)

三留 そういう部分含めていろんなことが壊れてきて……。それとあと、80年代って「悲惨さ」がないのかもしれないね(笑) 70年代的な悲壮感っていうものがもう映画に残っていなかった。

次回「三留まゆみ×市川大賀 第八夜「三留まゆみと長谷川和彦と」」

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