よく言われることではあるが、『ウルトラマン』(1966年)は前作『ウルトラQ』(1966年)という「大自然やあらゆるバランスが崩れた世界」に、改めて秩序をもたらすために現れた、コスモスのヒーローの物語である。それは前作『ウルトラQ』(1966年)のアイキャッチを突き破って現れる、「ウルトラマン」のロゴで実は明確に提示されている。

そしてこれも、幾多の評論などで言われてきたことだが、『ウルトラマン』の毎回の主役はあくまで怪獣であり、その怪獣の出現によって崩されたバランスや、巻き起こる騒動が主題であり、ウルトラマンはその主役を引き立てるホストでしかない。

以前どこかで読んだ評論に「ウルトラマンの役割は『徹子の部屋』における黒柳徹子や、『笑っていいとも!』におけるタモリみたいなものであって、その役割は、その回のゲストを迎えて、その魅力を最大限引き出すことであり、彼が主役になってドラマを引っ張ることは基本的にあり得ない」といった意味のことが書いてあり、言いえて妙だなぁと思ったりしたのである。

また、実はウルトラマンには、独自の正義思想はない。

確かに、主題歌にも「光の国から正義のために」と謡われているし、番組中にも何度か「正義」の二文字は使われているが、それは放映された1966年当時の、子ども番組としての、ルックスを整える意味もあったのであって、この『ウルトラ作戦第一号』という話を見る限りにおいては、ウルトラマンは決して、正義のために戦いはじめたのではない。

第1話の台詞においても、ウルトラマンははっきりと「地球の平和のため」と明言している。

「平和」とは状況を指す言葉であり、「正義」とは思想である。この二つは子ども番組においてはときとして恣意的に混同されがちだが、実は異なるカテゴリである。

記念すべき『ウルトラマン』の第1話『ウルトラ作戦第一号』は、東宝『ゴジラ』(1954年)以降、幾多の特撮映画を手がけてきた脚本家・関沢新一氏と、その関沢の弟子にして、円谷プロの文芸責任者にして、若き天才・金城哲夫氏が共同で執筆した脚本を、映画界の至宝・円谷英二氏の息子で、当時TBSの演出家でもあった円谷一氏が監督を担当した、栄光ある第一歩の作品である。(制作順番は9本目に当たる)

その物語は簡潔である。

ウルトラマンは、逃げ出した宇宙怪獣ベムラーを追って、地球にやってきたおりに、間違えて科学特捜隊のハヤタ隊員を死なせてしまい、そこで責任を取るために、ハヤタと一心同体になり、地球に留まり、ウルトラマンとして戦うことになるのだ。

確かにウルトラマンは、もともと宇宙警備隊に属しており、その職業倫理は「正義」なのかもしれないが、地球にやってきてベムラーを倒すまでは、確かにそれは宇宙警備隊員としての責務かもしれない。(そう、既にこれすらも「責務」であって、決してウルトラマンの個人価値観としての「正義のため」ではないのである)

しかし、それ以後地球に留まるのは、これは職務放棄の個人判断であり、その元々の職務が「宇宙正義」に基づいたものであるのなら、ここでのウルトラマンの選択は、宇宙正義に反した行為であったのかもしれないのだ。

ウルトラマンが宇宙正義よりも重んじて優先したもの。これは、異質な存在と繋がりあおうとする意思。そして、そこで出会えた縁を大事にする意思。

異質な存在、しかも自分たちよりも矮小でしかない命。

それに出会い、自分の過失で死なせてしまったとき、ウルトラマンがとった選択と勇気ある行動は、それは単なる「友情の芽生え」ともまた違う、ある種の覚悟だったのではないだろうか。

では、地球に留まることで、自ら宇宙正義を放棄したウルトラマンにとっての「新たな正義」は、どうやって手に入れたのだろう。

先述したように、ウルトラマンには思想はない。けれど、その後彼が地球上で、怪獣や宇宙人相手に向き合った時の、その行動原理には必ず「そもそもの、ウルトラマンの個人思想ではない正義」がそこにあったのだ。

これは矛盾する言葉であろう。

絶対的正義などどこにもないということは、現代では子どもでも知っている。

つまり正義とは確固たる思想に基づいた「真理の一面」であり、特定のイデオロギーに基づいた価値観でしかないのだ。

けれど、思想を持たないウルトラマンは、確実に「正義のヒーロー」だった。第2話以降の彼の戦いは、どれも決して、「私闘」でもなければ「職務」でもなかった。

その目的は「調和」であったかもしれないし、「秩序」であったかもしれない。その目的そのものが「思想」であるとも言えるかもしれない。自然界のバランスを崩して社会に現れた怪獣の、その魅力と主張を引き出しつつ、最終的には速やかに舞台裏へとお引取り願う為の幕引き係としてのウルトラマン。

では、自然と人間との「戦い」という対話を、常に人間側の勝利へと導くウルトラマンの「正義」とは、一体どういう経緯で生まれたのか。

そこで考えられる一つの遠因は、同化したハヤタ隊員の持つ人間のメンタリズムの中にある「正義」を取り込んだからかもしれない。宇宙正義を捨てたウルトラマンが、その責任感から同化した地球人・ハヤタの持つ正義を取り込み、その正義感に「力」を与えた。ウルトラマンの構図は、そうも読み取れる。

ウルトラに詳しいファンの方々ならば、とうに知っているだろうが、文芸という側面でウルトラマンを生み出したのは、1966年当時、まだ外国扱いだった沖縄に生まれ「僕は日本と沖縄の架け橋になる」との志を抱いて日本にやってきた、琉球のコスモポリタン天才・金城哲夫氏だった。

その「日本と沖縄の架け橋」を、ウルトラマンという視点に置き換えたときに、「宇宙と地球の架け橋」「自然と文明の架け橋」として解釈するのは、いまや大前提でもあるし筆者も異論はない。

しかし、先に書いた前提で考えると、もしウルトラマン側がハヤタの持っていた地球的正義感に、ただ一方的に力を貸しただけなのだとしたら、それは「架け橋」などではないのではないか?という疑問は、どうしても浮かんでしまうのである。

それは、筆者の頭にはずっと根付いていた、大きな疑問であったのだが、この年齢になり、幾多の人々と交流を持ち「見ず知らずの誰かと出会い、繋がり、付き合っていく」というプロセスを学ぶようになったとき、その疑問に対する、自分なりの回答が浮かんできた。

それは「覚悟」の問題だったのではないか?

後にシリーズ参加した、佐々木守氏・実相寺昭雄氏のコンビが暴いてしまった真理に「ウルトラマンは結局何も考えずに、人間の味方しかしないのではないか」というのがあるが、人が本当に謙虚に、未知の存在や文明や文化と同化しようと思うのであれば、お互いが「相手の全てを何もかも受け入れる」という、覚悟にも似た姿勢が必要なのではないだろうか?

だからウルトラマンは、あえて「何も考えず」に、人類が持つ価値観の全てを、まず受け入れてみせたのではないだろうか?

確かに対話は必要だ。キャッチボールは大事だ。けれど、人はそこで「投げるボール」と「受けるボール」を、常に同じ数にコントロール出来るように、器用にはできていない。

実際の社会生活でもついつい、相手のことを理解するよりも、自分のことをまず相手に理解させてしまおうと、無意識に相手に働きかけてしまうのだ。そのエゴを自覚したとき、人は「自らの認知の外の存在」に対し、はじめて謙虚になれるのである。

自らの過失からはじまったとはいえ、ウルトラマンはハヤタに命を与え、ハヤタという「未知の価値観と文明と概念を持つ存在」の正義に、一方的に力を与えて同化してみせた。

それは、同じ琉球生まれの脚本家・上原正三氏が『ウルトラセブン』(1967年)の『地底GO!GO!GO!』において、同じM78星雲人のセブンが地球にとどまる際に、明確な「M78星雲人としての理由」を付けたのとは、全く意味が違う行為であろう。

「地球人のエゴ的正義や平和の矛盾」は、宇宙人との星間侵略戦争構図で描かれたセブンの世界では、各作家から顕著に定義されるポピュラーな話題になるが、地球内での自然と人間の対立構図を描くことが多かった、ウルトラマンの中で語られた例は少ない。

むしろ、その「開けてはいけないパンドラの箱」を真っ先に開けてしまったのは、例によって例のごとく佐々木・実相寺コンビであるのだが(笑)

ウルトラマンの無思想性は、無知ゆえではないのだ。

自分が本来介在するべきではない地球という星において、自分がとるべき態度と姿勢が、主観的で尊大な「仲裁者」などではなく、徹底した「人間の持つ『正義』の味方」であるべきだと、ウルトラマンはこの第1話でそう決めたのである。なぜならば、その「自然と人間の対立」においてウルトラマンは、どちらの味方についても、その側に簡単に勝利を授けることができるほどの「力」を持ち合わせていて、そのことを、他ならないウルトラマン本人も自覚していたからである。

その覚悟は、生半可な「仲裁者気取り」なんかよりも、よっぽど強い意志と責任感がなければもてない「真の強さ」なのだろう。

金城氏が、本当に憧れていてウルトラマンに託したのは、その「真の強さ」だったのかもしれない。

次に、この回に登場した、ベムラーという怪獣の魅力に関しても言及してみたい。

本作品は製作話数で言えば9話目だけれども、視聴者にとっては第1話(当たり前だ(笑))。
それだけに、ベムラーという敵怪獣キャラが担う責任は、ある意味重大で、この怪獣の魅力が、後のウルトラマン人気の、流れを左右するといっても過言ではなかったのではないだろうか?
にも関わらず、登場したベムラーは、奇をてらうことのない、スタンダードな恐竜型の怪獣である。

初期ウルトラを支えた、芸術家でもあった、デザイナー・成田亨は後年のインタビューの中で、「単なる既存の生物の巨大化といったような、安易なデザインはしないようにと気を使いました」と語る一方で、『ウルトラQ』のボスタングやゴーガなどに触れ、「その一方で、あまり気負わずにやっていこうという気持ちもありました」と語っていたが、このベムラーという怪獣デザインにはその両面が窺い知れて大変面白い。

ベムラーは、一見正統派なゴジラタイプの怪獣に見えて、本来恐竜の生き残りであったゴジラがその演出プラン上捨ててしまった「退化した前肢」という「恐竜本来の記号」を、宇宙怪獣であるにも関わらず、生かしている辺りが印象深い。

「恐竜という生き物を、怪獣という概念で再構築する」
そう読み取ってみれば、ベムラーはある意味でゴジラへの挑戦状であり、偉大なる先駆者である円谷英二以下東宝特撮スタッフへの、若いクリエーターの集まりである円谷プロスタッフからの、リスペクトに溢れた提示だったのではないだろうか?

その挑戦状とも言える怪獣が、栄えあるウルトラマン第1話で登場したというのも、今から思えば感慨深い。
宇宙の長旅での疲れを癒すため湖底でのんびりすわっていた姿は、とてもウルトラマンの言っていた「宇宙の平和を乱す、悪魔のような怪獣」というイメージからは程遠いが、英雄の初登場という初回でウルトラマンを引き立てる役回りは、充分にこなしたと言えるだろう。
(そう、この物語は第一話と最終回のみ、ウルトラマンが主役なのである)
ちなみに、先述したとおりベムラーの前肢は退化してしまった表現で、実際の着ぐるみでもスーツアクターの腕は入らなかったが、その代わり、アクターの腕は頭部に伸びて、頭頂部の二枚のヒレを動かすことで表情を変える工夫がなされていたという。
しかしこれは、本編内では活かされずに終わった。

本来、口を動かして表情を演出する予定で造形された、ウルトラマンのラテックス製Aタイプマスクとあわせて、前人未到の作品を創り上げる過程での、試行錯誤が窺い知れて面白い。

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