『ウルトラセブン』(1967年)のクランクイン第一作目が本話であることは有名である。

『ウルトラマン』(1966年)でもそうだったが、あえて制作話順と放映話順をずらすことで、スタッフや出演者が作品世界に慣れてこなれてきた頃合の空気を、初回から伝えることが出来るのだ。

特にそれは、1シリーズごとにコンセプトや世界観を一新し、しかもそのどれもが既存のテレビ・映画では例をみないタイプだった、第一期ウルトラシリーズにとっては、有効な制作スタンスだったのかもしれない。

だからなのだろうか。

制作第1話になる本話では、ストロングタイプの恐竜型怪獣のエレキングがセブンと対決するという、前作『ウルトラマン』でスタッフが培った経験や技術が、真正面から活かせる特撮になっている。

そのエレキングであるが、この話でファンに有名な、ツッコミ点としてよく挙げられるのが、「シーンが進んでいくたびに黄ばんでいくエレキング」である。

確かに登場当初は純白だったエレキングが、ミクラス戦を経て、セブンとの対決の頃には体色が黄色くなってきていたのは、当時幼児だった筆者にも解った変化であって、これに対し後年ファンの間で「あれは、セットの土がこびりついて汚れた色なのだ」「いや、エレキングはカメレオンのように、体色を変化させるという怪獣という設定が、当初あったから色を変化させたんだが、あまり効果が出なかったので、今ではその設定がなかったことにされてるんだ」等々、諸説紛々あったのだが、どうやら真相は、撮影サイドの都合だったらしい。

当時はまだ、カラーテレビ文化の黎明期。

制作していた円谷側も、まだそのノウハウを熟知しきれておらず、純白のエレキングを、ホワイトバランス調整しながら撮影していったため、フィルム上では黄ばんでいく過程に見えるというのがどうやら真相らしい。

いかにも制作第1話らしい、エピソードであった。

一方、ドラマ的な視点でこの話をもう一度見返してみると、正当娯楽作に徹してある構図の中で、ピット星人の地球侵略のきっかけや理由が、その、怪獣を使用したスペクタクルな方法から比べると、とても個人的な、矮小な、まるで地球という星を、物のように捕らえてる視点であることに気付かされるのである。

ここにも、第1話の感想で語った、金城哲夫氏による、予防線のようなメンタリズムを感じることが出来る。少女の姿をした宇宙人が、思春期の少女独特のメンタリズムで、「だって欲しかったんだもーん」とても言いたげな理由付けで行う侵略。というレトリックで成立するこの話は、セブンが戦争ドラマになろうとするベクトルを、金城氏が必死に否定しようとしているようにも見えるのだ。

セブンの設定世界においては、恒星間において、侵略戦争が勃発している時代であると仮定されているのだが、地球は当然、防衛に徹するのみで、自らが他の星に攻め入ることで、その戦争構造に参加する形はとらない。

それはもちろん、このドラマが子ども向けであるが故でもあるし、少なくともセブン放映時のこの時代は、自国から戦争を仕掛けるという行為自体が、思想的に否定されていたこともあるのだが、それ以上に、金城セブン世界においては地球という存在が他の(侵略戦争構造に参加している)星達にとって、まるで椅子取りゲームの最後の椅子のように、単なる物として見られて、扱われていたような部分が見受けられるのだ。

例えばそれは、本話の無邪気なピット星人の描写にも顕著だし、第1話においてのクール星人の「地球人なんて昆虫みたいなもんだ」発言にも明確に表されているが、その第1話で放映されずカットされたシーンに、ダンとアンヌのこんな会話がある。

アンヌ「ウルトラ警備隊のために傷まで負って戦ってくれたお礼に何かプレゼントしたいわ。

    あなたが一番好きなものはなに?」

ダン 「地球!」

アンヌ「地球!?」

ダン 「僕が戦ったのはウルトラ警備隊のためだけではない。この美しい地球のためだ」

アンヌ「さすがは風来坊さんね。スケールがあっていいわ。

    お望み通り青く美しいこの地球を、心をこめてあなたに差し上げるわ」

ダン 「ありがとう。宇宙広しといえども、こんな素晴らしい星はないからね。

    僕は命をかけて地球を守るよ。

    悪魔のような卑劣な手段で地球を盗もうとする宇宙人が、うようよしているからね」

金城哲夫『ウルトラセブン』第一話『姿なき挑戦者』脚本より

後年の資料や談話によると、このシーンは撮影されてアフレコまでもされたものの、尺の都合でカットされたシーンらしく(第1話では、他にも有名な没シーンに、セブンがウルトラセブンと呼ばれるに至る、キリヤマ隊長の台詞のシーンがある)、これはやはり、あくまで尺の問題でカットされただけであって、本来の脚本段階から撮影に至るまでは、必要と判断されていたくだりなのだろう。

この中での、ダンとアンヌのやりとりは、その後のセブンの辿る経緯や、この段階での金城氏による、セブンの地球防衛の思想根底を知る上では非常に興味深い。

セブンはここでは明確に、宇宙的価値観から見た「地球の素晴らしさ」を、地球を守る理由に挙げている。しかも「命をかける価値」があるとも。

このシーンが、結果的にカットされた事実を受ける形で、後に上原正三氏が『地底GO!GO!GO!』で、セブンが地球に留まる事になった理由を書き上げた。

そこでのセブンの「理由」について、上原氏は作品内で「地球人・薩摩次郎の、個人としての勇気や姿勢に感動した為」という、微妙な「意味ずらし」を行っているが、金城プランでは、明確に宇宙的価値観・宇宙正義の視点から、地球防衛の正当性を語っている。

それ以上に、この没シーンで興味深いのは、ダンとアンヌの間で、冗談めかした形ではあるものの、「地球が好きだ」「あげましょう」という会話が成立している点だ。

これは、やはり金城脚本による前作『ウルトラマン』の『禁じられた言葉』を想起してしまう。

メフィラス星人が拘りに拘って、結果得ることが出来なかった「地球をあなたにあげましょう」という言葉を、ダンは第1話でアンヌからもらっているのだ。

その後、宇宙的スケールの子ども作品では決まり文句のように、「地球は美しい宝石のような星であり、宇宙では様々な宇宙人が地球を狙う」というフレーズが横行するが、少なくともこの時点での金城氏の世界観の中では、地球は、悪漢たる宇宙人にとっても、正義の宇宙人・セブンにとっても、地球人・アンヌにとっても「やりとりが成立する物」なのであり、そこに、金城氏の出身である琉球・沖縄という島が過去の歴史において、日本やアメリカの間で「やりとりする物」だったという事実と、それを無意識下で地球という星に、投影してしまっている図を見るのは難しいことではない。

宇宙中の星(国家)にとって、争いあってでも手に入れる価値のある星・地球。

自身が生まれた島は、安易な国家間の取引材料として、その旗印が揺れ動く存在だったが、そこにはそれだけの価値があったからなのだという、金城氏による、自分へのエクスキューズにも感じ取れるのである。

金城氏にとって、セブンの世界の地球は、あくまで無差別戦争構造に巻き込まれた立場でしかなく、それへの抵抗や防衛を行うセブンや、地球防衛軍の行動は交戦ではないのだという、そういった意思の表れにも思える。

また、太平洋戦争において、沖縄を奪おうと侵略したアメリカにとっても、そして、それへ対抗した日本にとっても、結局沖縄は「取引する物」でしかなかったのだよという絶望的な価値観も、少なからず金城氏の潜在意識には、あったのかもしれない。

大事なことは、セブンにおいても、『ウルトラマン』の『禁じられた言葉』においても、「ください」「あげます」というやり取りの中には、必ず渡す側においての「自分達の星(国家)を誰に渡すのか、託すのか」という意思が必要であると、金城氏が明確に発信していたことであろう。

沖縄には今も、沖縄の意思を前提としないまま、米軍基地が多量に存在している。

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